曽根中生『わたしのSEX白書 絶頂度』

タイトルを見ればわかる通りポルノ映画であり、劇中にはたびたび濡れ場があって、一応それを中心に映画が組み立てられてはいます。
しかしこの映画では濡れ場は中心であって中心ではありません。


定量の濡れ場があれば内容を問われなかったこの時代のポルノでは、政治的なテーマにおミソのように情事がくっついているような映画もあったわけですが、この映画はそのようなものではありません。
エロスは明らかのこの映画の中心的なテーマなのですが、男女の直接的な情交はここではエロスを喚起するための媒介でしかないのです。


三井マリア演じる主人公は、会社社長(らしき人)に呼ばれ、彼と秘書(らしき人・男性)と3人で奇妙な3Pをします。
おそらく社長は秘書のことを欲望しているのですが、どうやらゲイではないらしい彼と交わるために社長は美しい肉体を持つ三井マリアを媒介として必要とするのです。


主人公の弟は劇中だれとも交わりません。
友人を見舞った先の病院の看護婦の裸を空想しているシーンでは彼が看護婦に欲情しているのは明らかなのですが、彼は彼女に手を出しません。
彼はナイフで彼女を脅し、服を脱ぐように命じ(脱がせるのではなく)、友人の股間を「しゃぶれ」と言う。


また彼はストリッパーのお姉さんにも実の姉にも誘惑されるのですが、彼女たちを押し倒そうとしながらすんでのところで踏みとどまります。
彼の欲望は確かに性交に向けられているのですが、普通とは逆に「すること」ではなく「しないこと」を彼は志向しているのです。


主人公の看護婦とヤクザはもっと奇妙です。
彼女たちが求めているものを僕はうまく言い表すことができません。
単純な肉欲ではないことは確かです。愛情というようなものでもないでしょう。


愛のないセックスをする女などが登場すると、寂しさ、孤独などに関係付けられがちですがこの映画は決してそんな単純なものではありません。
生殖や肉欲のみに回収できない人間のみがもつ神秘的な性の営み、という意味では愛に似ていまが、彼女たちには愛に付きもののいたわりといったようなものは微塵もなく、やはり愛と呼ばれるべきでもない…。


曽根中生は、僕たちが普通に性関係を想像する時に思いつくものとは別のものを描こうとしているのだと思われます。
そしてそれがただの観念ではなくリアルな感触を持ったものとして現れてくるところにこの映画の恐ろしさがあるのです。

子供

友人とホタルを見に行きまして。
友人の子供も一緒だったのですが、30分くらい見ている間、子供たちは全然落ち着いておらず(当たり前か)肩車をすれば首根っこをつかみ、さかんに何か話しかけてくるのでした。
もちろんホタルに驚いたり追いかけたりもしているのですが、それに集中しているわけではない。
むしろ夢中になっているのは大人たちのほうなのです。


ではホタルは大人の見るものなのでしょうか。
もちろんホタルの光の純粋な美しさに魅入られもしました(「純粋な美しさ」ってナンだ?という話はおいといて)
しかし、そこにある種のノスタルジー、童心とでもいうべきものが関係していたのを僕は否定できません。
この場合、小さい頃にホタルを見た経験があるかどうかはあまり問題ではなく幻想としての子供時代というほどの意味です。


ホタルは子供が見るものでも(子供たちも楽しんではいましたが)大人が見るものでもなく、大人の中の子供の部分が見るものなのではないか、と思ったのでした。
まぁ他の大人たちがどんな気持ちで見ていたのかは知らないのですが。


関係ないけど。
子供たちに「メガネのおじさん」と言われてしまいまして。
素で「おじさん」呼ばわりされるのは初めてで、たいそうショックだったのですが(パパと同い年なのだから当然と言えば当然なのですが)僕がショックを受けているのを感じたのか二度はおじさんとは呼ばれませんでした。
意外と敏感な生き物なのですね。
あるいはパパかママが気を利かせて「おじさん」って言わないように注意したのかもしれませんが(笑)

宮崎駿『紅の豚』

最近、必死になって美術の勉強をしているwbntです。こんばんわ。


マレーヴィチは革命前後のロシアに生きた人ですが、20世紀初頭に起こった未来派の影響を強く受けています。
先日、ソ連サイレント映画の巨匠、ジガ・ヴェルトフの映画を観たのですが、機械に対する猛烈なシンパシーを感じました。
彼の中では労働とは機械によって表象されているかのようです。
スターリン政権下で前衛芸術は抑圧され、マレーヴィチもヴェルトフも干されましたが、初期のソ連に芸術以外の分野でも未来派の思想が影響していたのは間違いなかろうと思います。


未来派はもともとイタリアで起こり、そのままファシズムに直結しておりました。
ところで、労働と機械への愛は宮崎駿の大きなテーマでもあります。
ファシズム期のイタリアを舞台にしたこの映画には、最も色濃く未来派的なイメージが反映しています。
聡明な宮崎のことですから、これは意図的な符号ではなかろうかと思います。


宮崎には他にも重要なテーマがありまして、その一つがロリコンです…というのは冗談で、エコロジーというテーマがあります。
そして、言うまでもなく未来派的なテクノロジー賛美とエコロジーは相性が大変悪い。
メーヴェや飛行船など、テクノロジーの設定(設計)にも偏愛を見せながら、どちらかと言えばエコロジーの方面に舵を切っているほかの作品と比べて、この映画では機械への愛が強く出ています。


ここで思い出されるのは、イタリアンファシズムもソヴィエト共産党も完全に失敗したということです。
ポルコは飛行艇乗りであることに誇りを持ち、ピッコロやフィオたちエンジニアを愛していながら、テクノロジーを政治利用するファシズムには嫌悪感を隠さず、自分が戦争で英雄になったことを恥じています。
このアンビヴァレンスはポルコのものであると共に、宮崎のものでもあります。


ヴェルトフの『カメラを持った男』のコンセプトは、うろ覚えなのですが「文学とも演劇とも違う映画独自の言語を確立すること」というったようなことでした。
それが印刷機や鉄橋、エレベーターなどといった機械の描写であることは偶然ではありません。
産業革命後のテクノロジーの産物である映画は機械文明の子なのです。
もちろんアニメーションもそうであることは言うまでもありません。


ヴェルトフの時代とは違い、未来派というネーミングとは裏腹に機械文明にこのままでは未来がないことは今や明白です。
にも関わらず、斜陽となる運命を抱えたテクノロジーと共にしか生きられない人間(豚ですが)の矛盾し引き裂かれた生こそがポルコのダンディズムの源泉なのですね。

マンガ批評家再び(嘘)

DEATH NOTE』はすばらしい作品で大変おもしろく読みましたが、そこを長々と書くと本題と反れるので割愛しまして、今日書きたいのはちょっと気になった点のほうです。


犯人と探偵の心理戦が物語のメインとなるわけですが、それに比べてセックスの描写があまりにもおざなりなのですね。
心理的な駆け引きが最も高度でダイナミックに、そして日常的に行われているのは性関係においてだと思うのですが、この作品ではそういった要素がまるでありません。


海砂や清美をコントロールしつづけるのはもっと困難だったはずで、その駆け引きをきっちり描きこめばもっと深みのある作品になったかもしれません。
…というのは大嘘で、その点をあっさりと「書かないこと」と決め、二人を月に絶対服従ということにしてしまったからこそ面白かったわけですが。


頭脳ゲームとしての恋愛を描いたものとしては『東京大学物語』がありますが、少女マンガでそういうことをやっている作品はないものでしょうか。
読んでみたいものです。

全体/偶然

ウチの近所では、河川敷のクローバーは葉が大きく、公園のクローバーは平均してそれよりも小さい。
と言っても、同じ公園のクローバーでも株ごとに葉の大きさは違いますし、もちろん葉の一枚一枚に至るまで完全に同じ大きさのものなどありません。


ここから、
1、クローバーの葉の大きさは、場所、株ごとに一定の規則性を持つ。
という全体性に基づく視点と
2、クローバーは葉、株、場所ごとに違った大きさを持つ。
という個別性に基づく視点の二つ見方ができます。


このとき、全体性に視点を合わせてしまえば個々の葉の違い、個々の株の違いを見逃すことになりますし、逆に個々の対象の個別性に視点を合わせてしまえば、それらが秩序だって全体を構成していることが見逃されてしまいます。
ここで、個々が別の大きさを持つことを偶発性と言い換えてみましょう。
いつものように唐突に音楽の話に切り替える準備が整いました(笑)


東洋思想に傾倒していたケージにとって偶然性と全体性は矛盾するものではなかったはずです。
彼の音楽を偶然性というタームだけで理解するのは不十分なのです。
「偶然性を組織する」などと言うと矛盾しているように思えるかもしれませんが、クローバーのような自然のシステムを見ればそうではないことがわかるでしょう。


「自発的にそれぞれの音楽をやっている集団が、いかにいっしょに音楽ができるかということを追求している」
と語る高橋悠治が同じことを目指しているのもわかるでしょう。
彼の師であるクセナキスの「確率音楽」もまた、全体性と偶発性を矛盾なく扱うための方法なのです。


僕は高橋悠治を最も尊敬して影響も受けているのですが、今の僕は組織論を実験するための手段などほとんど持っておらず(その意志もあまりありませんが)、とりあえずコンピュータ一台で考えるしかないので、悠治よりもクセナキスに参照する点を見出したほうがいいのかもしれません。
数学の勉強はしたくないのですが(笑)

課題のための試論

マレーヴィチの人物画では、身体が筒状のパーツの組み合わせとして描かれ、上半身と腰に左右逆の影がついているものがいくつかあります。(*1)
また、後期の作品では頭、首、上半身…が様々な色に塗り分けられているものがあります。(*2)


これは、それらが別々のオブジェクトとして扱われていたことを意味します。
それらが三次元空間の制約を離れて存在するなら(マレーヴィチは四次元に惹かれていたそうです)シュプレマティスム期の、浮遊するように軽く、上下の感じられない絵になります。(*3)


逆に言えば、三次元の重力下では、人体のような統一された形態を持ち、なおかつそれぞれは有機的に結びつかずにいつでもパーツに分解可能です。(*4)


それから、マレーヴィチの描く四辺形や円は何の意味ももっておらず、建築や工業製品においても機能主義的な志向は一切ありません。
つまり、分解可能なパーツと言っても、それらのパーツがポットの取っ手や注ぎ口にそれぞれ対応するわけではないということです。(*5)


1 http://www.artchive.com/artchive/M/malevich/reaper.jpg.html
2 http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Malevich.jpg
3 http://www.artchive.com/artchive/M/malevich/suprema1.jpg.html
4 http://www.russianavantgard.com/Artists/malevich/malevich_arkchitechton_beta.html
5 http://www.russianavantgard.com/Artists/malevich/malevich_teapot.html


あまり関係ないですが、マレーヴィチシュプレマティスムを普遍的な芸術理論として考え、友人の作曲家と「シュプレマティズム音楽」なるものを構想していたそうです。
まったく資料は残っていないようですが、どんなものだったのか考えてみるのも面白そうです。

安野モヨコ『ハッピーマニア』

安野モヨコのキャラクターとの距離の取り方は気持ちがいいです。
クールだけれど愛にあふれている。
これはフィクションより、対象が自分(『美人画報』)だったり旦那(『監督不行届き』)だったりするエッセイのほうがわかりやすいでしょう。


「ちょいダメだけどそこも好き」とかいう甘ったれた愛情ではなくて、非情なまでの対象化が強い愛に支えられているというたいそう美しい愛のマンガたちです。
まぁ旦那を愛してるのはいいとして、自分主体のエッセイで愛にあふれてるってのは自己愛が強いってことなんですけどね(笑)
それでも正確に自分のこともクールに分析していますし、自虐的なだけにならないぶんバランスが取れていると言えましょう。


愛がないと書けないなずなのに、愛を失ってしまうこともあって、そういう時は読んでいてツライものがあります。
貴子さんは、はじめは「美人じゃないけど純朴そうでカワイイ娘」という感じなんですが、最後のほうは小太りになっています。
ストレスで太っていった、とかいう計算をして描いているわけではないと思うんです。たぶん。
書いてるうちに自分のキャラに憎悪が湧いてきて、それがストレートに表れてしまったように見えます。


シゲタなんてどれほどバカなのかって感じですけど、ほほえましい気持ちで見てしまいますからね。
主人公だけでなく男も女も最低キャラのオンパレードですが、みんなそのようにしか生きられないサガを感じると魅力的で愛らしい人たちに見えてきます。
それだけに貴子さんのずば抜けた醜さが際立っていて、そこに安野のキャラに対する距離の取り方の危うさと魅力が集約されています。


ところで、「遠くて近い」のが安野のキャラに対する適切な距離だと思うのですが、貴子さんがやや遠すぎるのに対して、『働きマン』の松方はやや近すぎる感じがします。
基本的に安野のキャラは「愛すべきダメ人間」です。
僕の考えでは、本当は松方も「仕事が出来る社会不適格者」って設定のはずなんですけどね。
「不適格者」の部分が弱い感じがします。


ハッピーマニア』を読んで「ああ、その気持ちわかる」という感想はありえても、「シゲタみたいになりたい」などとは誰も思いません(笑)
しかし、『働きマン』を読んで「松方みたいになりたい」と素直に思う人はけっこういるのではないでしょうか。もちろん僕は思いませんが(笑)
派遣会社のCMで松方(アニメ版)が「すべての働きマンを応援します」とか言ってますね。
あのCMに安野はあまり関わっていないとは思いますが、そういう読まれ方をしてるからそういう使われ方をするんだと思うんです。


まぁ舞台だけじゃなくてスタイル的にも今までと違うマンガを書こうとしてるのかもしれませんが。
僕は今のことろちょっと乗れてません。
がんばってるヤツが報われるって話を書く人ではないと思っているのですが(そいう話が嫌いだというのではなくて、安野はそういう作家ではないのではないか、という意味です)
式場でウェディングドレス着て「彼氏ほしい」って言ってしまうシゲタに感動してしまうのは、彼女が超絶バカで最低の女だからこそなんですけどね。