菊地成孔『聴き飽きない人々』

バンドネオンの奏者は、日本の民謡界における三味線だとか琴だとかと同じで、ものすごい愛憎がバンドネオンに対してあるんだってことですね…(略)…そういう愛憎入り乱れてるポストモダニストの作品を聴いてもひとつも面白くないんですよ。それで、バル・スールとかに行って、60、70歳くらいのおじいさんがやってる普通のアルゼンチン・タンゴを聴くと、死ぬほど感動するんです(笑)。ヤだなっていう。日本で邦楽を解放/発展させようとして一生懸命がんばってる人がいるのに、外人が国立能楽堂とか行くとそっちに感動して終わりっていうのと同じ感じがしましたね。

死ぬほど感動しつつもそこに耽溺せずにそれを切断してしまえる知性はアーティストにとって重要な能力です。
岡崎乾二郎なら「自分の感覚というものがいかに信用できないか」と言うところでしょうか。
それこそ菊地がマイルスから学んだことであり、「官能と憂鬱」という言葉もそのように理解されるべきだと思います。
「ポストモダニスト」には官能がなく、「普通のアルゼンチン・タンゴ」には憂鬱がない。
どちらが欠けていてもダメなのです。

しかし、すぐに気づくようにこれは非常に男性的な考え方です(性交時の官能と射精後の憂鬱)
知性、あるいは芸術は男性的なものであると言いたいわけではもちろんなくて、例えばメレディス・モンクやアーシュラ・K.ル=グウィンの作品から感じるのは、あくまでもシャープで知的でありながら、切断を伴わない別の原理の知性が存在するということです。

とりあえず前者を男性的、後者を女性的な思考と呼べるかもしれませんが、例えば川久保玲のような明らかに切断的な知性によって作品を作る女性アーティストのことを考えるとこの差は絶対的なものではないし、また男性/女性という語を使うことすら不正確であるかもしれません。

それに僕としてはこれを性差に還元できないもっと普遍的な地平で語ることが可能だと考えたいところです。
物理学の大統一理論みたいなもので、その理論を使えば男性でもモンクのような方法で曲を作れるというわけです。

まぁそれがどういうものなのかと言われてもノープランなのですが。
だってルグウィンもオキーフも肝心なところで「それは私の中に降りてくるのです」とかわけのわからないこと言うんだもん(笑)