(1)落ちる水 (2) 照明用ガス、が与えられたとせよ

ケージの「偶然性」は、可能性の総体であるとか、決定不能性の概念と関係づけて考えられがちで、それが間違っているとは思わないし、僕もそういう方向で考えて来たのですが、岡崎乾二郎によれば必然性を導入するためのシステムでもあります。


たとえばサイコロを振って3が出たとき、「1でも2でもよかったけど3が出た」と考えるのではなく、「他でもない3がでてしまったこと」の取り替えの利かなさ、変更不可能で決定的なものとしてその3をとらえること。


普通に作曲するときは、ドの次をレにするかミにするかは自分で選びます。
僕は優柔不断でものぐさなので、乱数を使ってそれを選びます。
その二つは一見正反対ですが、「どれを選んでもよい」という一点においては一致します。


それに対してケージのチャンスオペレーションでは、選ぶ行為の次元がなく「すでに選ばれたもの」としてドの次のレが外在的に与えられます。
そこでデュシャンの『遺作』の「…が与えられたとせよ」を思い出してみてもいいかもしれません。


また、三輪眞弘が乱数を使わない理由もそれで理解できます。
初期値が決定すればあとはすべてが自動的に決定されるという「逆シミュレーション」はまさに「与えられたとせよ」をリテラルに表現したものだからです。


はてさて、ここで問題になるのは、ケージや三輪、あるいはデュシャンがなぜそのような「外在性」を必要とするのかです。
カントの『人類の歴史の憶測的な起源』より引用、


「最初の段階では、理性は多かれ少なかれ衝動に奉仕する能力だったが、いまやそのような能力ではないことが明らかになったのである。拒むことは、たんなる感覚的な刺激を観念的な刺激に変え、たんなる動物的な欲望を次第に愛に変えるための技巧だった。この愛によってたんなる快適さの感覚から、美を好む趣味が生まれる。」


簡単に言えば、美あるいは愛には、快適なものをいったん拒むことが必要だということ。これを手がかりに次回もうすこしまとめたいと思います(←おい!)