宮崎駿『紅の豚』

最近、必死になって美術の勉強をしているwbntです。こんばんわ。


マレーヴィチは革命前後のロシアに生きた人ですが、20世紀初頭に起こった未来派の影響を強く受けています。
先日、ソ連サイレント映画の巨匠、ジガ・ヴェルトフの映画を観たのですが、機械に対する猛烈なシンパシーを感じました。
彼の中では労働とは機械によって表象されているかのようです。
スターリン政権下で前衛芸術は抑圧され、マレーヴィチもヴェルトフも干されましたが、初期のソ連に芸術以外の分野でも未来派の思想が影響していたのは間違いなかろうと思います。


未来派はもともとイタリアで起こり、そのままファシズムに直結しておりました。
ところで、労働と機械への愛は宮崎駿の大きなテーマでもあります。
ファシズム期のイタリアを舞台にしたこの映画には、最も色濃く未来派的なイメージが反映しています。
聡明な宮崎のことですから、これは意図的な符号ではなかろうかと思います。


宮崎には他にも重要なテーマがありまして、その一つがロリコンです…というのは冗談で、エコロジーというテーマがあります。
そして、言うまでもなく未来派的なテクノロジー賛美とエコロジーは相性が大変悪い。
メーヴェや飛行船など、テクノロジーの設定(設計)にも偏愛を見せながら、どちらかと言えばエコロジーの方面に舵を切っているほかの作品と比べて、この映画では機械への愛が強く出ています。


ここで思い出されるのは、イタリアンファシズムもソヴィエト共産党も完全に失敗したということです。
ポルコは飛行艇乗りであることに誇りを持ち、ピッコロやフィオたちエンジニアを愛していながら、テクノロジーを政治利用するファシズムには嫌悪感を隠さず、自分が戦争で英雄になったことを恥じています。
このアンビヴァレンスはポルコのものであると共に、宮崎のものでもあります。


ヴェルトフの『カメラを持った男』のコンセプトは、うろ覚えなのですが「文学とも演劇とも違う映画独自の言語を確立すること」というったようなことでした。
それが印刷機や鉄橋、エレベーターなどといった機械の描写であることは偶然ではありません。
産業革命後のテクノロジーの産物である映画は機械文明の子なのです。
もちろんアニメーションもそうであることは言うまでもありません。


ヴェルトフの時代とは違い、未来派というネーミングとは裏腹に機械文明にこのままでは未来がないことは今や明白です。
にも関わらず、斜陽となる運命を抱えたテクノロジーと共にしか生きられない人間(豚ですが)の矛盾し引き裂かれた生こそがポルコのダンディズムの源泉なのですね。