フランソワ・トリュフォー『突然炎のごとく』

もちろん三人の幸福なバカンスや後半のお涙頂戴な話も好きなのですが、僕はカトリーヌが出てくる前、ジュールとジムがテレーズという女の子と過ごすところがとても好きなのです。


テレーズがタバコの煙を吐きながら機関車のまねをして走るシーンで、彼女は意図せずにそこに映り込んでしまったモノ、ストローブ=ユイレの映画の木々のざわめきのようなものとして存在しています。
本来彼女は「主人公二人と偶然出会った女の子」という関係性の中でのみ成立するはずの存在なのですが、そのような関係性や映画のストーリーからするりと逃れて単独で存在してしまっている。
そしてそれは、彼女が二人の元から逃れていく存在であることも同時に示しています。


カトリーヌにはテレーズのような軽やかさはなく、もっとベッタリとして複雑です。
彼女は自分では逃げようとしながらも相手のことはがっちりと捕まえて離そうとしないという矛盾を抱えた存在として描かれています。
このような矛盾を抱えた人間が幸福になれるはずなどなく、後半に向かうにつれて悲劇的な展開を見せることになります。


だからこそ僕は前半の、崩壊を宿命づけられた三人の奇跡的な友情に涙してしまいます(まぁ後半も泣いてますけど)
突然現れた女神に恋をしているジュール、カトリーヌに魅かれつつもそれよりも友情を楽しんでいるらしいジム、まるで無意識にその場の感情しか存在しないカトリーヌ、性格も違えばお互いに求めるものも違うまるっきり噛み合ないはずの三人が、まるで三人で一つであるかのように画面を運動しているという奇跡です。


舞台を山荘に移してからはラストのカフェのシーンまで三人で画面に映ることはなかったように思います(記憶が正確ではありませんが)
三人一緒のシーンでもアルベールかサビーヌがいるか、もしくは誰か一人が欠けている状態…一度狂ってしまった歯車は二度と元には戻らないのです。


テレーズが去ったときの「女はいくらでもいるさ」という台詞が、取り替えのきかない関係を失った悲劇を際立たせます。
全員が互いを深く愛しながらも友情が壊れていくのをなす術もなく眺めるしかなかった悲しみが前半の友情の美しさを際立たせ、その美しい友情が後半の悲劇をよりいっそう悲しみの深いものにしているのです。


関係ないけど。
ドン・キホーテサンチョ・パンサ」という台詞にあるように、ジュールとジムの関係にはホモセクシャルの匂いが濃厚に漂います。
カトリーヌは実は一貫してジュールを愛しており、ジュールの欲するもの(ジム)に嫉妬し、自分もそれを欲望し、最後にはそれをジュールの手から奪った、と解釈することもできるかもしれません。