アキ・カウリスマキ『過去のない男』

救世軍の女性スタッフ・イルマは主人公の男(マルック・ペルトラ)にデートに誘われるのですが、そんなことには慣れていないらしい彼女は化粧品を前にして少し戸惑ったような微妙な表情でマスカラをつけます。
そして男の家に食事に来た彼女の口紅は少しだけズレている(笑)
単にメークに失敗して不器用に唇からはみ出しているのではなく、丁寧に塗ってはみたけれど、結果少しだけはみ出してしまった、というところがとても可愛らしいわけです。
このような細やかな描写が映画に内実を与えるわけですが、この映画はそれだけにとどまりません。


男は記憶喪失で名前を持たず、物語の後半で身元がわかっても誰も彼の名前を呼びません。
はたしてイルマは、男の家のソファに座って、キノコ狩りに行った森で、どのようにして名前のない男と愛を語らったのでしょうか。
ちょっと想像がつきません。


また、ラストでイルマは男のことを「私の初恋の人」と呼びます。
うぶなおばちゃんだとは思っていたけれどまさか初恋だったとは!
それまでどんな人生を送ってきたのか想像もつきません。


ここでは画面に映っていないところで二人がどう過ごしていたのかとか彼女の過去はどうなっていたのかといったことに対する想像力を発揮するための契機が意図的に切断されています。
細やかな描写がキャラクターに、ひいては世界にリアリティを与えているのですが、その世界が画面の外に広がっている背景のようなものが排除され、奥行きのない閉じた世界になっているのです。


といってもそれは平板で深みのない世界なのではなく、映画の内部で自立して充実している世界です。
遠近法のような、ある意味では作為的な奥行きではなく、画面の自立した運動によってフレームを飛び越えていく絵画のような空間だと言えるかもしれません。

勘違い

誕生日の夜、しばらく会っていない友人から不在着信が入っていたので、ちょっと嬉しくなりながら掛けなおしまして
「電話ありがとう、覚えててくれたの?」と聞くと
「覚えてるって何を?あのさぁ日曜日あいてる?」と、普通に要件を言われました。
誕生日とは無関係の電話だったようです。

宮崎駿『天空の城ラピュタ』

映像は僕たち人間の視覚を模して作られた技術です。
しかし映像は僕たちの見ているいわゆる現実の模造ではありません。
映像はそれ独自の論理に従って作られており、現実とは別種のリアリティを持ちます。
と言っても映像と現実とは関係がないということではなく、映像は映像独自のリアリティを獲得したときにはじめて現実と通底する回路をもつことができるということです。


カメラによりいわゆる実写映像は、文字通り現実を写し取った映像であり、現実の論理に強く影響を受けているためそのことがわかりにくいかもしれません。
映像の論理は、すべてのものが偽物であるアニメーション映像においてより強く表れます。


パズーはこれからラピュタの内部に侵入しようかというときに、床がすべるからというだけでためらいなく靴を脱ぎ捨てます。
また、バズーカで開けた狭い穴を通るときにはかばんも捨てます。
その見事な捨てっぷりに彼の後先考えずとにかく前に進む性格が表れています。
より正確に言うならば、金貨3枚で引き下がったことに対する後悔が、彼に二度と後には引かない決意をさせたわけですが。


ドーラは爆風で吹っ飛ばされても前転して受身をとりスタっと立ち上がって、若い息子たちを軽々と追い抜きながら颯爽と逃げます。
「颯爽と逃げる」などと言うと形容矛盾のようですが、すばやく、ずるがしこく且つ豪胆という彼女の性格がその逃げ方に表れているわけです。


パズーの穴抜けもドーラの受身も現実にはありえないアクションですが、それこそが彼らのキャラクターを生き生きと魅力的なものにし、生命力を吹き込んでいます。
現実にはありえないアクションが彼らのリアリティを支えているわけです。


もちろんそれは、「ドーラは息子たちより足が速い」といった設定の次元だけにとどまるのではなく、映像としてそれをどう見せるかにかかっています。
走っている全身を描くのではなく、必死の形相の息子たちの顔と涼しい顔のドーラの顔のアップの対比でそれを見せるとか、頭から穴に体をねじ込むパズーの顔とバタバタともがく首から下だとかいったものがその設定を支え、その設定がキャラクターの内実となり、それが映画全体のリアリティを支えているわけです。

時を越えて

浜松から母が上京してきていまして、
「サミット…じゃなかった、ヤマイチ(近所のスーパー)ってまだ開いてる?」と聞くので
「ヤマイチはまだ開いてるよ。で、サミットって何?浜松のスーパー?」と聞くと
「日吉のスーパー。なぜか急に出てきた」とのこと。
ちなみにウチの家族が日吉に住んでいたのは僕が4歳の時までです(笑)
人間の記憶インデックスとは摩訶不思議なものです。

アモス・ギタイ『フィールド・ダイアリー』

パレスチナ問題を扱った映画と言えばゴダールの『ヒア&ゼア』があります。
あくまで傍観者でしかないフランス人・ゴダールパレスチナとの距離を扱ったものですが、イスラエル人・ギタイにはそのような距離はなく、当事者的視点から撮られることになります。
とは言え、カメラのこちら側とあちら側の間にある距離がゼロになることなど原理的にあり得ないので、ギタイは当事者としてその「距離」を考えることになります。


もちろんギタイはそのような問題を自覚的に、深く考えています。
冒頭の、兵士たちともみ合う撮影スタッフの中にギタイ自身が姿を見せているのは(彼自身が画面に映るのはこのシーンだけです)、自身が撮る者であると同時に撮られる者の一員でもあるという態度表明です。


兵士にレンズを手でふさがれブラックアウトした画面にタイトルをかぶせたのは、「この映画の扱う現実はレンズの向こう側にあり、われわれ(スタッフ、観客)はレンズのこちら側にいる」ということを表しているでしょう。


パレスチナ問題では当事者にも「イスラエル側かパレスチナ側か」という対立があり、中立的な立場などありえません。
イスラエルが一方的にパレスチナを占領したというような単純な問題ではなく、ユダヤ人にとってもイスラエルは(神話的にも、そして現在では実質的にも)故郷であり、パレスチナ人のユダヤ人に対する暴力も起こっています。
しかしギタイはパレスチナ人の暴力に関してはかなり間接的にしか語りません。
彼は徹底的にユダヤ人としてこのドキュメンタリーを撮っており、そこに彼の倫理があるのです。


嫌がる若い兵士を執拗に撮り続けるラストシーンは、映画を撮るという行為にも暴力的な作用が含まれていることを示します。
冒頭で、軟禁されたパレスチナ人の市長の妻が語る「彼らは言論を恐れている」という言葉は、映画も含めた言論に世界を変えるだけの力があるのだというギタイの信念、メッセージであると同時に、言論が暴力にもなりうるという二重の意味を含んでいるのです。

5月の踊るロード賞!

カール・ドライエル『裁かるるジャンヌ
ジガ・ヴェルトフ『カメラを持った男』
F・W・ムルナウサンライズ
エルンスト・ルビッチ『陽気な巴里っ子』
相米慎二台風クラブ


トーキーが一本しかありません。
シネフィルっぽいラインナップです(笑)

5月の踊るヒット賞!

Laibach『Kapital
Sleeping people『sleeping people』
Labyrinth『Labyrinth』
Leyode『fascinating tininess...』
Miles Davis『kind of blue』


菊地成孔の「知るを楽しむ」第一回を録画した方いらっしゃいませんか。