アキ・カウリスマキ『過去のない男』

救世軍の女性スタッフ・イルマは主人公の男(マルック・ペルトラ)にデートに誘われるのですが、そんなことには慣れていないらしい彼女は化粧品を前にして少し戸惑ったような微妙な表情でマスカラをつけます。
そして男の家に食事に来た彼女の口紅は少しだけズレている(笑)
単にメークに失敗して不器用に唇からはみ出しているのではなく、丁寧に塗ってはみたけれど、結果少しだけはみ出してしまった、というところがとても可愛らしいわけです。
このような細やかな描写が映画に内実を与えるわけですが、この映画はそれだけにとどまりません。


男は記憶喪失で名前を持たず、物語の後半で身元がわかっても誰も彼の名前を呼びません。
はたしてイルマは、男の家のソファに座って、キノコ狩りに行った森で、どのようにして名前のない男と愛を語らったのでしょうか。
ちょっと想像がつきません。


また、ラストでイルマは男のことを「私の初恋の人」と呼びます。
うぶなおばちゃんだとは思っていたけれどまさか初恋だったとは!
それまでどんな人生を送ってきたのか想像もつきません。


ここでは画面に映っていないところで二人がどう過ごしていたのかとか彼女の過去はどうなっていたのかといったことに対する想像力を発揮するための契機が意図的に切断されています。
細やかな描写がキャラクターに、ひいては世界にリアリティを与えているのですが、その世界が画面の外に広がっている背景のようなものが排除され、奥行きのない閉じた世界になっているのです。


といってもそれは平板で深みのない世界なのではなく、映画の内部で自立して充実している世界です。
遠近法のような、ある意味では作為的な奥行きではなく、画面の自立した運動によってフレームを飛び越えていく絵画のような空間だと言えるかもしれません。