アモス・ギタイ『フィールド・ダイアリー』

パレスチナ問題を扱った映画と言えばゴダールの『ヒア&ゼア』があります。
あくまで傍観者でしかないフランス人・ゴダールパレスチナとの距離を扱ったものですが、イスラエル人・ギタイにはそのような距離はなく、当事者的視点から撮られることになります。
とは言え、カメラのこちら側とあちら側の間にある距離がゼロになることなど原理的にあり得ないので、ギタイは当事者としてその「距離」を考えることになります。


もちろんギタイはそのような問題を自覚的に、深く考えています。
冒頭の、兵士たちともみ合う撮影スタッフの中にギタイ自身が姿を見せているのは(彼自身が画面に映るのはこのシーンだけです)、自身が撮る者であると同時に撮られる者の一員でもあるという態度表明です。


兵士にレンズを手でふさがれブラックアウトした画面にタイトルをかぶせたのは、「この映画の扱う現実はレンズの向こう側にあり、われわれ(スタッフ、観客)はレンズのこちら側にいる」ということを表しているでしょう。


パレスチナ問題では当事者にも「イスラエル側かパレスチナ側か」という対立があり、中立的な立場などありえません。
イスラエルが一方的にパレスチナを占領したというような単純な問題ではなく、ユダヤ人にとってもイスラエルは(神話的にも、そして現在では実質的にも)故郷であり、パレスチナ人のユダヤ人に対する暴力も起こっています。
しかしギタイはパレスチナ人の暴力に関してはかなり間接的にしか語りません。
彼は徹底的にユダヤ人としてこのドキュメンタリーを撮っており、そこに彼の倫理があるのです。


嫌がる若い兵士を執拗に撮り続けるラストシーンは、映画を撮るという行為にも暴力的な作用が含まれていることを示します。
冒頭で、軟禁されたパレスチナ人の市長の妻が語る「彼らは言論を恐れている」という言葉は、映画も含めた言論に世界を変えるだけの力があるのだというギタイの信念、メッセージであると同時に、言論が暴力にもなりうるという二重の意味を含んでいるのです。