宮崎駿『天空の城ラピュタ』

映像は僕たち人間の視覚を模して作られた技術です。
しかし映像は僕たちの見ているいわゆる現実の模造ではありません。
映像はそれ独自の論理に従って作られており、現実とは別種のリアリティを持ちます。
と言っても映像と現実とは関係がないということではなく、映像は映像独自のリアリティを獲得したときにはじめて現実と通底する回路をもつことができるということです。


カメラによりいわゆる実写映像は、文字通り現実を写し取った映像であり、現実の論理に強く影響を受けているためそのことがわかりにくいかもしれません。
映像の論理は、すべてのものが偽物であるアニメーション映像においてより強く表れます。


パズーはこれからラピュタの内部に侵入しようかというときに、床がすべるからというだけでためらいなく靴を脱ぎ捨てます。
また、バズーカで開けた狭い穴を通るときにはかばんも捨てます。
その見事な捨てっぷりに彼の後先考えずとにかく前に進む性格が表れています。
より正確に言うならば、金貨3枚で引き下がったことに対する後悔が、彼に二度と後には引かない決意をさせたわけですが。


ドーラは爆風で吹っ飛ばされても前転して受身をとりスタっと立ち上がって、若い息子たちを軽々と追い抜きながら颯爽と逃げます。
「颯爽と逃げる」などと言うと形容矛盾のようですが、すばやく、ずるがしこく且つ豪胆という彼女の性格がその逃げ方に表れているわけです。


パズーの穴抜けもドーラの受身も現実にはありえないアクションですが、それこそが彼らのキャラクターを生き生きと魅力的なものにし、生命力を吹き込んでいます。
現実にはありえないアクションが彼らのリアリティを支えているわけです。


もちろんそれは、「ドーラは息子たちより足が速い」といった設定の次元だけにとどまるのではなく、映像としてそれをどう見せるかにかかっています。
走っている全身を描くのではなく、必死の形相の息子たちの顔と涼しい顔のドーラの顔のアップの対比でそれを見せるとか、頭から穴に体をねじ込むパズーの顔とバタバタともがく首から下だとかいったものがその設定を支え、その設定がキャラクターの内実となり、それが映画全体のリアリティを支えているわけです。