ピーター・グリーナウェイ『フィリップ・グラス/メレディス・モンク』

グリーナウェイがテレビ用に撮ったドキュメンタリーシリーズの一つ。
悪口は書きたくないので作品名は挙げないが、
「音楽ドキュメンタリーとはこれほどつまらないものなのか…」
と思わせる映画を最近何本も続けて観たので、とりあえず映像と構成の質の高さに乾杯。
とか言いつつグラスはそんなに好きじゃなくて飛ばしたので、以下モンクのことだけ。

モンクの表現の極端なシンプルさは、入力された様々な情報をふるいにかけ、その原型を取り出すという方法からくる。
「原型」と言っても、それは永遠の普遍性をもった音楽やダンスのイデアのごときものではない。
過去、そして現在に作られた音楽やダンスを様々に咲き乱れる花だとすると、それが花開く前の種子の段階の表現とでも言おうか。
つまりそれは、花という概念の本質(イデア)ではなく、様々な花がかつて持っていた原初の状態というほどの意味だ。

それが「本質」ではなく「原型」であることと関わるのだが、
モンクのシンプルさは、例えばストローブ=ユイレ池田亮司のような、切り詰められた厳しさではなく、
多数のゆれを含み、ユーモアに富んで、可変的である。
(関係ないが、モンクやライヒにあってグラスやナイマンに無いのは「ユーモアのセンス」だと思う)

『亀の夢』はソロの曲として書かれたものだが、
パフォーマンス化するにあたって4人用に編曲され、振り付けが作られた。
その際彼女は「演じ手には自由な余地があります。彼らを束縛する作品を私は絶対に作りません」と言っている。

これは、この作品に限らず彼女がパフォーマンスにあたって常に即興的な変更を加えている可能性を示唆している。
一般に「ミニマル・アート」が非妥協的で変更を許さない表現であること(それが悪いわけではもちろんないが)を考えるとこれは驚くべきことだ。
が、もっとも驚異的なのは、彼女の表現がこれほどまでに可変的なものでありながら、常にその可能性が花開くことなく可能性の種子の段階にとどまり続けていることである。

「種子にする」とはエネルギーを凝縮するというのと同義だが、
彼女はその種子が持つ、今にも花開かんとする潜在的なエネルギーを保持したまま、
それを花開かせるのではなく、別の可能性にスッとすり替えるのだ。

僕たちはそこに、恐るべきエネルギーを秘めた高密度の小さな粒がいくつも飛び交うのを見るだろう。
それは何時爆発するとも知れぬ危険を隠し持っていながら、あくまで軽やかで、ユーモラスで、シンプルである。