ダニエル・シュミット『季節のはざまで』

70年代までの作品の中でのシュミットの「虚構」は
ある種特殊な、異空間的な様相を呈していた。
80年代以降の作品では、虚構と現実の境は見た目にはむしろ明確になっているのだが、
虚構が現実を侵食する度合い、現実の中における虚構の濃度が高くなっているのを感じる。
始めから明らかなことではあるのだが、こうなると虚構/現実という区分がますます意味をなさなくなってくる。
かと言って「虚構」と言う以外に適切な言葉も思いつかないのだが。

『ヘカテ』のロシェルにとってはクロチルドという女が、
『トスカ』では老音楽家たちの歌ってきた歌が、
『デジャヴュ』とこの『季節のはざまで』では場所が、
主人公たちに幻視を引き起こすトリガーになっているのだが、
これらが具体的な対象としてある、ということが重要だ。

つまり、これらの虚構が具体的な対象との関係から生まれてきたということ。
ヴァランタンに廃墟となったホテルで幻想を見せるものは
幼い時を過ごした彼とホテルの関係がそうさせるのであり、
ヴァランタン少年が祖父とサラ・ベルナールの思い出を「見る」のも、
祖父とそのエピソードへの彼の愛着がそうさせるのである。
ホテルとヴァランタンとの濃密な時間が今ここにはない幻想を見せているのだ。

『今宵かぎりは』や『ラ・パロマ』では、まるでこの世とは思えない異空間を描いたシュミットが、何故に具体的なモノとの関わりをその虚構の根拠として求めたのか。
そこには「老い」が関係しているのだと思う。
完全な異空間をゼロから精密に作り上げるだけの体力がなくなったということだが、
シュミットも歳をとって日和ったなどということではない。

目の前にある具体的なものに触れ、それと対話を交わし、
少しだけ流れをずらすことでまるで見たことのない風景を出現させる。
歴史に挑むかのような30代の頃のシャープさと引き換えだとは思うが、
それによって作品の質が落ちているなどということは全くないのだから正しい成熟だと思う。


はてさて、なぜこんなことを考えたのかと言えば、
実は友人の恋人に会ったのだが、「かっこいい人なの!」と聞いていたその彼が、
僕の目から見ればごく普通のおにーちゃんだったからで(失礼だな)
彼との濃密な関係が、僕には見えぬかっこよさを彼女に見せているに違いないのだ。
ちょうどヴァランタンが廃墟となったホテルに幻想を見るように。

それを「幻想」「虚構」と呼ぶのは、それらが嘘だと思うからではもちろんない。
前にも書いたが、それが嘘だと思っているのなら誰も映画など撮らぬし、恋などしない。
むしろそんな幻想や虚構こそが人生を規定している真実だと言えるだろう。
少なくともあの友人の恋人には、ごく普通の顔(失礼だな)をかっこよく見せてしまえるだけの内実があるに違いないのだ。
それこそが真の意味でのイケメンというものである。

僕にもそんな幻想を見せてくれる子猫ちゃんが欲しいものだが、
言うまでもなく「チビでメガネで坊主頭だけど超かっこいいの!」と誰かに言わせられる人間になるのが先決というものだ。
がんばろう。