フィリップ・ガレル『自由、夜』

ガレルの映画は叙情的な物語であるにもかかわらず
妙に淡々としていて、容易に感情移入することができず
ボソボソとしたつぶやきを苦労して聴き取るような
決して嫌ではないけれど楽でもないような作業が要求されます。
さらに例えるなら、半分ボケた祖父の話に付き合うような感じ(笑)

と言っても物語は先に述べたように叙情的だし、
演出が淡々としているわけでもない。
この映画には、ここまでやるかというくらいベタな演出がいくつもあります。
こんなところで泣くんじゃねぇというような涙、
こんなところで抱き合うんじゃねぇというような抱擁。

そしてそのようなシーンに付いてまわるこれまたベタな音楽。
抱擁のシーンではとびきり甘いメロディが、
暗殺シーンでは激しいリズムと不気味な不協和音。

にもかかわらずこの映画が簡単な感情移入を拒むのはなぜか。
それは節度を欠いた時間の使い方とでも言いましょうか。
ムッシュがはらりと涙を流すシーンや一人縫い物をしているシーン、
これが適切な時間で区切られているのならば
彼女の孤独や悲しみに涙させられるのでしょう。
しかし、ガレルの異常な時間の使い方はこれらのシーンから叙情を奪います。

裸で布団に包まるジェミナの姿は、
最初そのみずみずしい美しさを映し出し、
やがて行為を終えた後の若い娘の複雑な心情を映し出すかに思えながら、
彼女がこちら(カメラ)を見やるに至って
もはやそのような叙情は消し飛んでしまい、
ナマの彼女の存在だけが荒々しく画面に刻み付けられる。

ジャンがこちら(カメラ)を向いて熱っぽく未来を語るシーン、
ともすれば赤面してしまいそうなシーンですが
その余りにストレートな過剰さのせいで
彼の(あるいはガレルの?)の主張の青臭さは消え
内容よりもその切羽詰まった様子が深く心をえぐります。

たぶんこんなチンケな話が叙情豊かに語られた日には
こんなつまらない映画はないというものになったでしょう。
ガレルは徹底して過剰であることによって、物語を、叙情性を振り切り、
映画でしか実現できないような世界を切りひらいたのでした。