昨日の続き

正義や悪と言ったものは実体としてあるわけではないけれど
それを無いと言ってしまうこともまた間違っています。
実体としての正義や悪などというものは
テロとの戦い」というようなおぞましく
かつ悪い冗談としか思えないようなものになってしまう。

昨日の繰り返しになりますが、ブッシュ政権が間違っているのは
悪の枢軸」の実体を見誤っているからではなく
悪が実体として存在するかのように考えること自体が間違っているわけです。

しかし、正義も悪もないのだと言ってしまうと
全ては相対化され何をやっても同じということになってしまう。
アメリカやテロリストが何をやろうが世界は変わらない
もちろん自分が何をしようが何も変わらない、
という究極的なニヒリズムになってしまう。
これもまた非常に危険な考えだと言えましょう。

僕たちにできることと言えば、
そんなものは無いとわかっていながらも
正義や悪について考え続けること。
答えは無くても問い自体は不毛ではないのです。たぶん(笑)

これは正義や悪に留まりません。例えば「セックスの自由」とは何か。
(1)まず思い浮かぶのは自由にセックスすることです。
しかし人間のセックスは徹底的に観念に縛られていて
好き勝手にセックスすればその観念からは逃れられない。
「セックスの自由」とは「セックスからの自由」であると言えます。

(2)さて、セックスが枷であるのならば
「セックスからの自由」とはセックスをしないことだと思えます。
しかしそんなものは観念を裏返しただけで結局観念に縛られています。
しない、などというのは選択肢の一つであるにすぎません。

(3)「セックスからの自由」とは結局のところ
自由にセックスをすることだと言えましょう。
最初に戻っただけかと思われるかもしれませんが全然違う。
1、2の過程を経ずに3の結論だけ取り出しても無意味です。

選択的信仰についても同じです。
神とは何か考えずに神はいないなどと言うのは滑稽です。
面倒くさいけれども僕たちは、正義とか悪とかセックスとか神とか…
について考え続けなければならない。
真の悲劇は思考停止した時に起こるのです。

と言いつつ、
すべてについて考えることは不可能だ、という問題があるのですが
それはまた気が向いたときにでも。