悪意の連鎖を断ち切れるか

ヴェンダースストローブ=ユイレを観てからちょっと考えるところがあります。
ストローブ=ユイレはテロリストを自称するほどの戦闘的政治姿勢にも関わらず
その映画は徹底的に現状認識的で「それより先」
つまりその現状に対する働きかけがないのですね。
ヴェンダースの「天使」に似た認識者だと言っていいでしょう。

ヒロシマ・モナムール』や『ベトナムから遠く離れて』
などの映画が繰り返し語っているように、映画は真実を語れない。
ストローブ=ユイレは真実のような顔をした虚構を避ける
という消極的な理由で認識者の地点に留まっているのかと思っていましたが
それだけではないのではないか。
何もしないことは政治的なアクションたり得るのではないかと思ったのです。

スターウォーズジェダイの帰還』で、
ルークは皇帝に仲間が帝国軍に散々やられている場面を見せつけられます。
普通だったらここで皇帝をぶっ倒して話は終わりなんですが
皇帝は「私を憎め、私に剣を向けろ」と挑発し
彼を殺せば仲間を救えるにもかかわらず、ルークは剣を取らない。

一見するとどちらの行動も珍妙に見えますが、
皇帝の戦略は理にかなっているし、ルークの判断も正しい。
ここで皇帝を殺せば物語的にはハッピーエンドかもしれませんが、戦争は終わらない。
皇帝を殺された怨念を負う者が必ず現れ、ルークに剣を向けるでしょう。
そいつが死んでもルークが死んでもまた彼の意志を次ぐ者が…
ってことで悪意の連鎖は止まらないってわけです。

皇帝は悪の権化みたいな人だから殺してもよさそうなもんですが
これはおとぎ話の世界。実際には悪の権化などこの世にいません。
ブッシュJr.とビン=ラディンは二人とも善意の人であって
お互いに「正義のため」と称して殺しあっている。
おそらくヒトラースターリンだって彼らなりの正義を信じていたと思います。

では彼らの何が間違っているのか。
彼らは憎むべき対象を間違えているのではありません。
「誰かを憎むこと」自体が間違っているのです。
相手が誰であれ(たとえ悪の権化のように見えようとも)
憎しみは必ず自分に返ってくるのですね。

ナウシカ』の最後でヴ王クシャナ
「宮中は陰謀と術策の蛇の巣だ。だが一人も殺すな。
一人でも殺せばわしと同じに次々と殺すことになる」
という遺言を残しますが、言ってることはヨーダと同じです。
彼や神聖皇帝やダース・ベイダー
そのようにして悪意の連鎖に絡めとられてしまったわけですね。

非常にやっかいなのは、皇帝みたいな人をどうするかです。
結局ルークの代わりにベイダーが彼を殺しますが
明らかにこの終わり方はインチキです(笑)
宮崎にしたところで、レプカムスカを最後に殺さざるをえない。
漫画版の『ナウシカ』はレプカのような人間を殺さないためにはどうしたらいいか
という問いに答えるために書かれたと言ってもいいかもしれません。

まぁ彼らほどの悪人じゃなくても
殺したいほど憎い人間がいるという人は多いでしょう。
実は僕にも一人だけいます。
上記のような理由で彼に憎しみを抱いてはいけないことはわかっていました。
しかし彼を許すこともできない。
どうすれば憎まずにいられるのかずっと考えてきました。

そこで、天使になればよいのではないかと思ったのです。
カシエル達は二度の世界大戦に見舞われたベルリンを
ただ見つめるだけで一切干渉することができません。
誰かを助けることができないかわりに誰も殺しません。
オトン達は彼らを見舞った悲劇に怒るでも嘆くでもなく
ただそれを受け入れることを自らの倫理にしています。

悲劇を悲劇的に語ることで得られるカタルシス
悲劇の本質を隠蔽するものでしかない。
同様に、許せないことに対して怒りをぶちまければ
スッキリはするかもしれないけれど、実はそれは根本的解決ではない。
(復讐しても死んだ人は戻ってこないってヤツです)
逆にその怒りが出来事の本質を隠蔽するでしょう。

許せない事実を何らかの感情に解消させず
事実をありのまま受け入れようと努めること。
相手を攻撃しないことは言うまでもなく、
できれば憎しみは心の内だけに留め
それを表明もせず、態度にも表さないことが望ましい。
それによって悪意の連鎖を断ち切ることができるのならば
「何もしないこと」も積極的な意味をもつアクションだと言えるわけです。

非暴力不服従ってやつですね。
暴力に屈しないこととそれに立ち向かうことは
必ずしもイコールではないということ。