音楽と力

実はまだ半分も読んでいないのだが、
姜尚中オリエンタリズムの彼方へ」より

権力は、一つの制度でものなく、一つの構造でもなく、ある種の人々がもっているある種の力でもない。「それは特定の社会において、錯綜した戦略的状況に与えられる名称なのである」。したがって問題は、中心から権力の作用を見るのではなく、あらゆる場所で、しかもある場所から他の場所への関係が成立するあらゆところで発生する力関係の戦略――その全般的構図が「国家の機関、法の明文化、社会的支配権において実体化されるような戦略」の機能をきめ細かに分析することである。

ちなみに「」内はフーコーの引用です。

はてさて、音楽というものは、
もとは空気振動でしかない音を、姜に倣って言えば、
ある種の戦略によって結びつけるものだと言えましょう。
そこには音同士の力関係といったものが存在します。
わかりやすい例で言えば、
ハ長調ではド(主音)が一番つよい音だとか、
シ(導音)が主音を導くとかいうヤツですね。

この話のキモは、これらは、中心的な一つの力
(例えば作曲者、姜の例で言えば政府や王だろうか)
が集中的に管理するシステムではないということ。

労働者の規律=訓練は強権的になされるわけではなく、
彼ら自身の手で主体的になされる。
それを人事や賃金でもって選別するのが
管理者の仕事なわけです。

同様に、音楽は神たる作曲者による被造物ではなく
音自身の自立的に力関係を結ぶことによって
成立しているのではなかろうか。
もちろん、ただの空気振動に意志があるわけはないので
話は観念論的になるわけですが、
どうやら整理できなそうなので、今日はここまで。