相米慎二『ションベンライダー』

冒頭のワンシーン・ワンショットはすごい。
いったいあれは何なのだ!と思って帰ってから調べてみたら、有名なシーンらしいですね。
二人のヤクザを上から見下ろすショットからはじまり、彼らの移動を横に追い、壁を乗り越えてプールにいる主人公たちを登場させると、そのままプールを抜けて校庭までワンカット約8分。
どうやって撮ったのかと思いきや、クレーンからクレーンにカメラを渡してつないだのだそうで。


すごいのも事実ですが、いったいなんのためにそこまでしたのかとも思わされるシーンでもあります。
クレーンを何台も用意して尋常ではない労力をかけてまでワンカットで撮らねばならない「必要」があったのか、と。
昨日書いたこととはまったく矛盾してしまうわけですが(笑)僕の言うことなんていつもそんなものです。


はてさて。
しかし、考えてみればこの映画の登場人物たちは必要のないことばかりしている人々であることに気づきます。
主人公たちは誘拐されたいじめっ子の同級生を追うのですが、命がけで助けてやらねばならないような仲ではないし、「嫌なヤツだから自分たちが復讐する前に殺させるわけにはいかない」などという理屈もメチャクチャです。
誘拐する二人のチンピラは一応「組の命令」ということで動いているのですが、途中で組は解散してしまって彼らの目的は霧散してしまう。
藤達也にいたってはなぜ二人を追っているのかさっぱりわかりません。


ストーリーに目的がないだけでなく、彼らの行為にも目的がわからないものがたくさんあります。
三人はなぜ路上で花火をしているのか。
坂上忍はなぜ線香花火を口にくわえてマッチを摺り続けているのか。
その横で体を回転させながらジャンプしている永瀬正敏はただ単にジャンプしているだけです。
誰の(たとえば愛する人の)ためであるとか、何かの(たとえば熱海に行く)ためだとかいった目的を持たない純粋の無為の行為だからこそ、彼らの一つ一つの仕草までもがあれほど鮮烈で感動的なのです。


ジョジョ(永瀬)に「なぜ君は回転しながら跳んでいるんだ?」と聞けば、
「ただ跳びたかったから」と答えるでしょう。
相米に「なぜ冒頭のシーンはワンカットで撮ったのか」と聞けば
彼もまた「ただ撮りたかったから」と答えるのではないでしょうか。
一見なんの目的もない無為の行為を全力でやりとげる。それこそが相米慎二の美学なのではないでしょうか。


ちょっと話は変わるけど。
相米慎二の映画と言えば「通過儀礼」だと言われます。
それが間違ってるとは思いませんが、この映画の三人組も含め、薬師丸ひろ子田畑智子も、主人公の少年少女が通過儀礼を経て成長しているようにはあまり見えません。


この映画を観て思ったのは、相米は「通過儀礼」を撮ろうとも、決して「成長」を描こうとはしていないのではないかということ。
だっていい歳したおっさんである監督本人からして中学生と同じようなことをしているのですから、成長もへったくれもありません。


もちろん彼女たちが何も変わっていないということではありません。
彼女たちの世界を見る目は変わり、世界そのものが変わった。
しかし、彼女たちに起こったのは「成長」ではなく単に「変化」だと言うべきではないかと思うのです。