相米慎二『セーラー服と機関銃』

相米慎二長回しはなぜかあまり長さを感じさせません。
同じくワンシーン・ワンカットを得意とするアンゲロプロスストローブ=ユイレの映画では、ワンシーン・ワンカットの執拗さに否応無くジリジリとさせられ、その時間の中に物語の外部が侵入し、それが映画の厚みとして感じられます。
俳優の身体や声、ざわめく木々の光や音の物質性が物語を突き破ってくるのですが、相米長回しにはそういったものが感じられないのです。


とは言え、相米の映画に物質的な生々しさがないというわけではありません。
むしろそういうものに満ちあふれています。
例えば葬儀場のだだっ広い広場で薬師丸ひろ子が一人ブリッジをしているという唐突な感じ。
そしてアップになった彼女がブリッジをする姿の、成熟した大人の女のものでも子供の無邪気さにも回収されないようなアンバランスな魅力。


では相米アンゲロプロスストローブ=ユイレはどう違うのでしょうか。
彼らは画面上に物質として現れてくる映像や音響の中に歴史を宿らせようと試みます。
ギリシャやイタリアの具体的な風景とそこに立つ俳優の生々しい身体の中に、かつてパルチザンが起こったであろう場所の具体性とそれを生き抜いた人々と地続きになった現在を観る。
そしてその歴史に想いを馳せる。
そのために執拗なまでの長さが要求されます。


相米の映画にはそのような歴史の意識はありません。
彼の映画の時間性はアンゲロプロスたちとは逆方向を向いています。
時間の遅さではなく早さです。
星泉は思春期特有の無鉄砲さと感受性の鋭さから、後先考えずに行動しその表情は絶えず移ろいやすい。
佐久間は彼女とはまったく別の理由から(笑)明日を知れぬ生を生きており、まるで生き急いで(死に急いで)いるようにも見える。


歴史とは対極の地点で「今、この瞬間」を生きる者の具体性。
それこそが相米慎二の描きたかったものなのではないでしょうか。
瞬間々々に変わりつつある彼女たちの「今」を捉えるために、その変化を記録するためにこそ彼は長回しを必要とするのでしょう。