政治的主体と芸術的主体

「なかったことにして忘れたい」という気分に鞭打って、忘れないうちに書いておくことにする。
とは言え、今回ばかりは行こうと思っていたのに投票用紙が両親のところに転送されちゃったんだけどね。
ウチの世帯主は父なのだ。
東京都知事選の投票用紙が静岡県に送られるとはこれいかに(笑)


はてさて。
石原慎太郎に投票した人なんて一人も知らないし、聞こえてくるのは「誰がアイツに投票したんだ」という声ばかりである。
しかし、言うまでもなくその声は世間を代表していない。
僕の周りにそういう声が集まっているだけだ。


僕は石原支持者の意見なんて聞きたくもないから聞こえないのだが、これは僕の個人的な問題ではなくシステムの問題だと思う。
異なる意見を持つ人が互いに断絶している社会構造、聞きたくもない意見を聞かなくても生きていける社会のシステムが僕に石原支持者の声を聞こえなくさせている。


「断絶」という言葉を使ったが、ちょっとだけ説明が必要だ。
一人も知らないなどと書いてはみたものの、僕の周りに石原支持者が一人もいないわけではないと思う。
300万人もいるからには僕の知り合いでも何人かは石原に投票した人はいるはずなんだけど、彼(彼女)と僕がそのことを話題にする機会がない。
断絶ってのはそういうこと。


石原慎太郎のことが嫌いそうな人としか政治の話はせず、ジャック・ドゥミが好きそうな人としか映画の話をしない。
政治的主体としての自分と映画ファンとしての自分を切り分け、それぞれが別の共同体に属している。
僕の中での複数の主体の断絶も問題だ。
もちろんそういう使い分けはあって当然なのだが、それを統合しなくても生きていけるシステムが断絶を加速している。


普段映画を観ない人に『シェルブールの雨傘』の魅力を説明する…う〜ん、難しいしめんどくさい。
オリンピック賛成!って思ってる人になぜ石原じゃいけないかを説明する…僕には無理ッス。
しかし、そんなことを思ってると映画なんかどんどん廃れていくし、石原慎太郎が280万票も獲得してしまうのだ。


岡崎さんが「作品の良し悪しよりもその作品がどういうものかについてのコミュニケーションのほうが大事だ」みたいなことを言ってけど、改めてそれが身につまされる。
岡崎さんや高橋悠治は政治的主体であることと芸術的主体であることが一貫して結びついているのだ。
見習わないと。


岡崎さんは「そこら辺に歩いてるおっさんに自分の作品を説明できること」とも言っていたのだけど、それこそが作品を鍛えし、というかそれができないと結局は作品もダメになる。
でもってそういうことを怠っているといつのまにか280万人もの狂人と一緒に暮らさなきゃならないハメになるのだ。
あなおそろしや。