ジャック・ドゥミ『思い出のマルセイユ』

ドゥミの映画ではしばしばすれ違いが重要なテーマになる。
この映画では、モンタンはマリオンが昔の恋人の娘だと知らずに自分の舞台に出演させ、
マリオンは自分が演じている役が自分の母のことだと言うことを知らない。
ミレーヌはもちろんモンタンのことを知っているが、彼と娘が出会っていることを知らない。


3人は互いに知り合いなのだが、モンタンはマリオンとミレーヌを別個に知っており、二人の関係を知らない。
そしてそのような関係がマリオン、ミレーヌにもそれぞれ成立し、その錯綜したすれ違いが物語の原動力となる。
基本はコメディなわけだがモンタンとマリオンが寝ちゃったりするからけっこうエグい。


話はそれるけど、ドゥミは近親相姦をおぞましい悲劇ではなくけっこうサラっと、「ちょっとした間違い」のように描くから逆に怖い。
とは言え、ドゥミは「幸福の影で打ちひしがれる者たち」を描いてきた作家でもあるわけで、幸福なおとぎ話だけではなくファンタジーが持つ暗さも彼の重要なテーマなのだ。


はてさて。
すれ違いが起こるということは、物語内に3つの流れが別個に存在するということである。
3人の登場人物の描く線が、時には交わり、時には平行線をたどり、時には交わるかのように見えて交わらなかったりして映画を構成している。


その線は比喩としてだけでなく、動線としても表れている。
例えば、画面を横切って大通りを歩くマリオンが通り過ぎた後でホテルからモンタンが出てくるシーン。
あるいはモンタンが車で横切っていったその後にアパートからマリオンが出てくるシーン。
垂直に交わる二つの線がわずかにすれ違っていくがなんともエロティックだ。


この映画では物語的な必然から最後に3人が(初めて)一同に会してめでたしめでたしとなるわけだが、ドゥミが最も得意とするのは、このようにそれぞれの線が固く結びつく場面ではなく、離れていた線がわずかに触れ合い、そしてまた離れていくという展開である。


『ローラ』や『シェルブール』のラストに見られるように、60年代の傑作も基本的にこの路線で作られている。
この映画では、モンタンとミレーヌが再会を果たし、つかの間のダンスを踊ったあとお互いに想いを告げぬまま別れていくシーンがそのような場面である。
このまま一緒になることはないと知っている二人の、それでもなおわずかな邂逅に心を通わせる喜びと、運命に対する憂いが画面を震わせている。


関係ないけど。
『パーキング』は、ジム・モリスン(知り合いだったらしい)の死に触発され、主人公夫婦はジョン・レノン夫妻をイメージしており、できたらデヴィッド・ボウイ主演で作りたいと思っていたのだが、結局わけのわからないフランス人俳優がロックスターの役を演じることになったらしい(笑)


この映画のイブ・モンタンは歌も踊りも全盛期の栄光(観たことないけど)など見る影もないが、スターの余裕と貫禄だけは恐ろしいほどに漂っていて、それが画面を引き締めている。
『パーキング』がボウイ主演で撮られていたらどんなにいい映画になっていただろうと想像せずにはいられない。