マックス・オフュルス『たそがれの女心』

ダイヤの耳飾をめぐる物語であるこの映画は、上記の「結晶の罠」のテーマ通りの映画だと言えよう。
物語はルイーズが結婚記念にもらった耳飾を金に困って売り払うところから始まる。
これは軽率で身勝手な性格を表し、同時に夫への愛が醒めていることを示すだろう。


次に、アンドレが「耳飾を失くした」という妻の嘘を狂言と知りつつ耳飾を買い戻し、それを愛人に与える。
半ば嘘と知りつつ嫌な顔一つせずに探し回る彼の姿と、それを平然と愛人に与えるさまに、彼の妻への愛の複雑さと偽善が見てとれる。


ちょっと脱線するけど。
僕は彼の一貫したダンディズムに強く惹かれるが同時に鼻持ちならない高慢も感じる。
そしてあれほど愚かで身勝手なルイーズが「上品で優雅」と表現されているのにも驚く。
現代の一般ぴーぷるである僕たちからすると、二人とも随分とぶっ飛んだお人に思えるが、当時の感覚からすると普通のことだったのだろうか。


はてさて。
数奇な運命を辿って耳飾がドナティの手に渡り彼の手からルイーズに送られるにいたって、醒めた愛の象徴であると同時に不倫の象徴でもあった耳飾はつに愛の結晶となるだろう。
しかし、だからと言ってそれが醒めた愛の象徴であることをやめるわけではない。
密通(キスまでしかしてないらしいが)の証拠であるこの耳飾は、ルイーズにとってもアンドレにとっても地雷であり続けるのだ。


幾重にも重ねられた象徴性の力が頂点に達するのは、アンドレによって三度目まで耳飾が買い戻された時である。
幸せな家庭生活が偽りであることと、それでも彼が妻を愛していることが確認され、ルイーズ、アンドレ、ドナティ三者の愛がこの耳飾に結晶化する。
そしてそれがルイーズの手に渡った瞬間にそれがもう彼女の物ではないことが告げられ、この愛は無残に砕け散り、愛の結晶が破局の結晶へと一瞬にして変わるのである。


後は転がり落ちるように破局へ向かうのみである。
時にコミカルに、時にシリアスに演じられる反復は閉じられた円環を象徴するだろう。
ルイーズたちは、ダイアモンドの永遠の輝きのように、この円環から出ることができず、時間の輪の中で永遠に悲劇を演じ続けるだろう。


関係ないけど。
ドナティと愛し合いながらも、どうやら事には及んでいないらしいルイーズが
「愛し合っているだけで清い関係です。お許しください」と教会で祈るシーンがあるが、残念ながらアウトである。
ユダヤキリスト教の「姦通」の観念がもっとも特異で厳格な点は「事に及んじゃダメ」ではなく「そう願うだけでもダメ」である点にあるからだ。
そういうわけで哀れドナティは過酷な罰を受けることになるのだった。合掌。