キム・ギドク『絶対の愛』

「生産者の顔が見える」などという時の「顔」とは「どこの誰か」ということであり、つまりはその人のアイデンティティのことである。
言い換えれば、アイデンティティとはまず顔のことだということでもある。


もちろんこれは極端な言い方であって、
普通に考えれば「私は私である」という意識がアイデンティティの根幹を成すだろうし、
主人公セヒが男の手の感触を確かめて恋人のジウを同定しようとしたように、
顔(イメージ)以外の身体感覚にそれを求めることも可能だろう。


しかし、それらがいかに脆いものであるかはこの映画を観ればわかるだろう。
ジウに飽きられてしまうことを恐れたセヒは整形手術をしてスェヒという別人としてジウの前に現れ、ジウはそれと知らずにスェヒのことを愛するようになる。
そして彼女はセヒの名の置手紙で彼を呼び出すのだが…。


よく考えればわかるが、ジウがどちらを取ろうとも彼女に救いはない。
もし彼が行かなければセヒ(以前の自分)は愛されていなかったことになるし、
もし彼が行くならばスェヒ(現在の自分)が愛されていないことになるのだ。


意識としての彼女はセヒからスェヒまで同じ人間だが(当たり前だ)
このとき彼女は二人の人間に引き裂かれてしまっている。
つまり、顔を変えることで「私は私である」という感覚を失ってしまったのだ。


それを彼女の「自分がない」あるいは「主体性がない」弱さとして捉えてしまうのは間違っている。
人間は他者によってはじめて自分になるのだから。
自分の最も愛する人間にセヒとスェヒが別人として認識されたとき、彼女は同一の意識を保ったまま、二人の人間として引き裂かれてしまったのである。


ここまででも十分におもしろい映画なのだが、ギドクの真骨頂はここからである。
スェヒがセヒであると知ったジウは自分も整形して姿を消すのだが、待てども待てども新しい顔の彼はスェヒの前に姿を現さない。


彼女は行きつけの喫茶店や思い出の公園に彼の姿を求めて彷徨うのだが、見つけることができない。
実際には会っているのかもしれないし、もしかすると昨日寝た男がそうなのかもしれないが確信が持てない。
そしてついに彼女は半狂乱になり、待ちすべての男の中にジウを見出してしまう。


繰り返すが彼女を笑う者は愚かである。
アイデンティティなどもともと幽霊のようなものであり、いつ分裂したり偏在してしまうとも限らない幻想なのだから。
そして、そのような幻想を信じることなしに人は生きてはいけないのだ。


はてさて。
これを観ながら、岡崎乾二郎の『経験の条件』で読んだグラッソの話を真っ先に思い出していた。
ブルネレスキのいたずらで、ある日突然、知り合い全員に「マッテオ」と呼ばれたグラッソという男が、自分はマッテオだと思い込んでしまう話である。


で、映画のあとに行った講義でも岡崎さんは
「この人はお母さんと同じ顔だけどお母さんじゃない」と思い込んでしまうカプグラ症候群の話をしていた。
たぶんギドクと岡崎さんには(ブルネレスキにも?)似たような問題意識があるのだろう。
もしかしたらギドクは岡崎乾二郎を読んでいるのかもしれない。嘘だけど。