美の基準

安野モヨコはマンガでもエッセイでも「めかす」と言う言葉をよく使うのだが、
絵を見ても前後の文を読んでもキャラ、あるいは彼女自身がどこをどう「めかして」いるのかいまいち掴めない、というような話を前に同居人としていた。
我々と安野のファッションの趣味の違いや、絵柄の問題(下手だということではなく、彼女はディティールをけっこう飛ばす)なのかとも思っていたのだが、最近同居人はついにその正体を突き止めたらしい。


エッセイで「すごくめかしててカワイイ女子高生が…」と書いていたのだが、なんと挿絵に描かれている女子高生が制服を着ているのである。
もちろん制服でも彼女たちなりに一生懸命おめかししているだろう。
しかし、いい大人の女性が制服の女子高生に「おしゃれ」を感じるのはちょっと変だ。
いや「同居人と僕には奇異に感じられた」と言いなおすべきか。
おそらく、安野にとって「めかす」とはファッションではなく、まずメイクなのだ。


辞書で調べると、

おめかし:化粧をしたり着飾ったりすること。おしゃれ。「―して出かける」

である。僕は「めかす」と聞くとまずは着飾ることを思い浮かべるが、辞書的には両方正解なのである。
まぁ感覚の違いですな。


はてさて。
ウチでは近所の古本屋でファッション誌を30円で買ってきて読んでいるだが『GLITTER』という雑誌のスナップは写真がやたらと小さく、ディティールが飛んでいて何を着ているのかよくわからないのが気になった。


ブランドがわからないから困るとかいう話ではなくて、
全体のシルエット(雰囲気)はわかるのだが、どんな素材なのかとか、袖や裾をどうしているのかということがわからない。


なぜそうなのかと言えば読者のニーズがそこにないからだろう。
「雰囲気」以外のものが求められていないのだ。
この手の雑誌の読者(と思われる人)の服装にもそれは見てとれる。
どういうシャツをどう着ようという意識がない。

ananは言うまでもないとして、この雑誌の読者も、そして安野も基本的に洋服に興味がないのだろう。
もちろん、僕がコスメに興味がないように、洋服に興味がない人がいても一向に構わないのだが。


例えば、無頼を気どるのも一種の美意識だという意味で「美しくありたい」というのは人間の基本的な欲望のひとつだが、何をもって「美」とするかは人それぞれである。
しかし、僕はこの「人それぞれ」に心の底では違和感を感じている。
本当の美というものが存在し得ないものなのだろうか、といつも考えてしまうのだ。


美しいシャツ、美しい和音、美しい投球フォーム、美しい人生、美しい夕日...etcを貫くような本質的なものが。
まぁいつも答えなど出ないのだけれど。