言葉の問題

↑の話を同居人にしているときに、僕が「素人童貞」という言葉を口にしたところ
「え?何それ?…えっと、素人?童貞?あ…もしかして素人としかそいうことしたことが?…違うな、玄人…だから…えーと逆か!…あ、なるほどぉ。そんな言葉があったんだ!」
と一人で考えて納得していた(笑)


僕ぐらいの年齢の男性にとっては日常用語と言ってもいい言葉だが
使用されるのは男性同士の会話のときに限られると言ってもよく、
もしその場に一人でも女性がいれば滅多なことでは口にされない言葉であり、
テレビもあまり観なければ合コンにも行かない彼女が知らなくても不思議ではない。


水村美苗の『私小説』によれば、アメリカの高校では「Girls」という言葉が女子便所の隠語でもあるそうだ。
言うまでもなく、日本と同じく休み時間に女子たちがトイレで様々な噂話をしているのである。
そういうのは洋の東西を問わないのですね(笑)


私小説』でも言葉がただちに人間を規定する過酷な環境が執拗に描かれているが、
ある種のコミュニティに帰属するというのは
素人童貞」だの「Girls」だのという言葉を習得するということである。
ギャルや2ちゃんねらーが、そこに帰属しない者には理解できない言葉を使うことで
自分たちと外部を区別しているのを考えればわかるだろう。


「シネフィル」とか「B-BOY」というは、単に映画やヒップホップが好きな人のことではなく、
もう少し別のニュアンスを含むものではないかと思っていたのだが、
もしかするとそれらは、ある種の「言葉」を習得することによって「なる」ものなのかもしれない。
その場合の「言葉」には、B-BOY特有の仕草や服装なども含まれる。
柄谷行人が「コカ・コーラは思想なんだ」と言っているが、同じ意味である)


現在の音楽は、細分化されたジャンルがそれぞれ分断され、
それらを貫く「普遍的によい音楽」という概念が構想できなくなっている状況なのだが、
(別にそれが悪いことだというわけでもないのだが)
それはジャンル間を貫く共通言語がないことが原因なのではないか。


メガデスとコモンとケージを貫く共通の美というものは
「ある」はずなのだが、誰もそれを「名指す」ことができないのだと思う。
芸術の本義は「語りえぬもの」の経験にあるわけだが
それは記号(言葉)を媒介せずには不可能なものでもあり、
「語りうるものについて語りつくす」ことでしか得られぬ経験である。
だからやはりそれは名指されなければならない。
僕もがんばろうとは思うのだが、音楽について語るのはとても難しいのだ。