ピーター・グリーナウェイ『ジョン・ケージ』

この前観た『グラス/モンク』と同じ『4 American Composers』シリーズ。
この前もアップリンクでケージの別のドキュメンタリーを観たが、
どちらも「これを観ればケージのことがわかる」というものではない。
というか、『サイレンス』や『小鳥たちのために』を読んでもわからない。


彼については神話的なエピソードがいくつもあるが、
それらは何一つ彼について明らかにせず、わかった気にさせるだけである。
小倉優子が『ウルルン』の設定した枠に収まらなかったように、
ケージもまた、一切の説明を拒み、閉じ込めようとすれば籠の隙間からキノコの胞子のように霧散していなくなってしまう。


グリーナウェイが偉いのは、ケージの「捉えどころのない収まりの悪さ」を
無理やり何かに押し込めるでもなく、かといって何もしないのでもなく、
「収まりの悪さ」を正確に捉え、彼のはみ出しっぷりを映像化したことだ。
4分33秒』について触れないのは懸命な判断だったと思う。
あれは神話化作用が強すぎて、わかってもいないのにわかった気にさせてしまう曲だからだ。


巻貝に水を入れて空気がゴボゴボいう音を鳴らす『Inlets』で、
「コツを掴んだと思っても全く音が鳴らないときがあるんだ。かと思うととんでもないところでゴボゴボ鳴ることもある」と語っている。
ケージは音楽に不確定性を持ち込んだが、彼が演奏に際してかなりの厳密さを要求することが知られている。
「コントロール不能」と「コントロールしないこと」は全く別なのだ。


どのように鳴るかわからない巻貝の音の「不確定性」を聴くには、
それをできるだけ上手に鳴らそうと努めることが必要なのだ。
注意深くコントロールしようとしてもどうしても上手く鳴ってくれない部分こそが「不確定」な領域として残るのである。


聴衆は、そこで何が起こっているのかに注意深く耳を傾けてはじめて、そこで起こるハプニングに開かれ、それを聴くことが出来る。
同様にグリーナウェイは、ジョン・ケージという捉えどころのない人間を前に、彼を籠に閉じ込めるでもなく、そのままの彼を捉えるのでもなく、ケージという不確定な存在を注意深く観察し、その不確定性そのものをビデオに収めるのである。