吉村公三郎『嫉妬』

この映画はラストで離婚した高峰三枝子が「一人で歩いてみたいと思うの」と言って終わるのだが、
『婚期』で彼女は離婚して自由に生きる女性の役を演じている。
あれはこの映画の主人公・敏子の将来の姿なのかもしれない、などと思う。
(名前も家族構成も違うので続き物ではないのだが)

それは吉村が家族を撮る映画作家だからだろう。
4本しか観てないのにそんなことを言うのも何だが(笑)
劇場には「女性映画を革新した」とあるが、
それは常に家族関係の力学の中にさらされる女性である。

まぁ『森の石松』は家族の映画ではないので、
より正確には「社会的な性関係の中での女性」を扱う作家と言えようか。
あれは石松が主人公ではなく、石松と母と二人の恋人の関係が主題であり、
石松はその三人の女性との関係の結節点にすぎないのだ。

さて、この映画は、家庭と言う名の牢獄の中でネズミのように縮こまって生きていた高峰三枝子が、背筋をピンと伸ばし神々しいまでの美しさを獲得するまでの物語である。
彼女がそれを獲得するのは、宇佐美淳へのほのかな恋心と、弟の死が契機かと思いきや(もちろんそれも間違っているわけではないが)実は暴君のような夫、佐分利信の力によるのだ。

とうに彼女には欲情しなくなっているらしい佐分利は、妻と宇佐美の仲を疑うが、それでも指一本彼女には触れない。
まるで触れれば祟られる、直接見れば目がつぶれるとでも言わんばかりに、付かず離れずの距離で彼女を尾行する。
そう、この神と人との関係のような佐分利の神話的な身ぶりによって(笑)高峰はその神々しさを獲得するのだ。

自らの行った儀式によって妻に神々しい美しさを与えた佐分利は、その美しさに目を奪われ禁忌を犯す。
すなわち、自らの手で接触を禁じた妻に欲情し、その体を奪おうとするのだ。
もちろんその試みは失敗し、神の怒りに触れた彼はすべてを失うことになるだろう。

こうして見ると、自業自得であるのは当然だとしても
彼もまた抗いがたい関係の力学によって妻を失う哀れな人間であることがわかるだろう。
吉村の映画は単に女性の映画であるだけでなく、どうしようもなく愚かで無力な男たちの映画でもあるのだ。
つまるところそれはやはり「家族」いや、家族間の「関係」こそが主題の映画なのである。