内田吐夢『大菩薩峠』

原作は読んだことがないが、
主人公・机龍之介は「人斬りに憑かれた男」のはずである。
お松の祖父を斬り殺す冒頭のシーンには何の説明もなく、
富士の見える美しい峠の風景となんの意味もない殺人、
お松の悲痛な叫びと龍之介の無表情の対比にハッと胸を打たれるだろう。

お浜の話では昼も夜もうなされているようだし、
殺した人々の幻影に怯えたりもしているが、
そもそも「彼はなぜ人を斬らずにはいられないのか」が全く説明されないし
説明しようと試みられている様子もないので、
龍之介の苦しみに観客が共感する余地などない。

次郎長だろうが水戸黄門だろうが同じことだが
殺陣のシーンでは観客はどちらかに肩入れしているからこそ痛快なのであって
いくら流麗な殺陣を見せようとも、主人公がここまで空虚な男となると
観客の心は入るべき器を見失い、ただただ龍之介の不気味さのみが残るだろう。

七兵衛もなにを目的にしているのかわからぬ男だし、
お浜がなぜあんな男に付いて行ったのか最後までわからないし、
お松は兵馬に付いて行きたいと思ってはいるが、自分が足手まといだとも感じている。
キャラクターとしての立ち居地がはっきりしているのは兵馬のみで
あとの連中はあっちへフラフラこっちへフラフラ、何がしたいのかさっぱりわからない。

しかし、自分のやりたいことがわかっていて、しかもそれを実行している者などそうそういるものではないだろう。
人は理由もわからない衝動に駆られ、自分でもなんの説明もできないようなことを平気でするものなのだ。
よくは知らないが、昭和28年まで旧満州に残った内田の戦争体験がそこには影を落としているのかもしれない。

自分ではどうすることも出来ない不条理に身をさらされ続ける人々。
それが内田の映画の独特の暗さと重さを生んでいるものであり、
しかし、それを運命として孤独の内に受け入れる態度が、ある種の清々しさを生んでいるのだろう。
それを「共有できぬもの」とする内田=龍之介のニヒリズムには僕は必ずしも賛同しないが、その孤高の精神の美しさには魅かれもする。