アレクサンドル・ソクーロフ『エルミタージュ幻想』

ワンシーンワンカットと言えば
もちろん一台のカメラ(単一の視線)で撮ってるわけで
ソクーロフ自身の視点だと思われるナレーションともあいまって
非常に一人称的な色合いの強い画面になっています。

人間の視線には映画のようなカット割りなどないわけで、
その意味でワンシーンワンカットは人間の視線により近いといえますが、
しかし、それが観客の視線と重なるか、
つまり自分が見ているかのような錯覚を引き起こすかというとそうではなくて
それが他者の視線であることを強く意識させるような映像になっています。

アダルトビデオでも一人称的な視線というのはありまして
男優が性交しながら撮影も行うハメ撮りという手法ですが、
これは鑑賞者があたかも自分で性交しているような気分になる
などと言われていますけれど
実際に観ると、アングルが制約されることと
片手が塞がっていることによる行為の不自由さの二点によって
他者の視線であることが強く意識されてしまいます。

ここであたかも自分がまぐわっているような感覚、というのは
純粋に視覚的な効果というよりも、
映像が持つ意味に感情移入することによって引き起こされるのではないか。
カメラを置いたり、女優に画面を見せたり
時には女優にカメラを持たせたりといった
一人称からの脱落が逆に鑑賞者のバーチャル一人称の効果を促進している面があるのです。

さて『エルミタージュ幻想』に戻りますが、
この映画にはナレーションの他に
語り手の役目を負う登場人物もいて
一人称と二人称が半々くらいになっているわけでして
正確には一人称映画ではないのですが
そういった視点の複雑化によって観客が「観ること」を意識化することが
ここでも映画に対する没入を助けているように思います。

この映画でもっとも美しい場面は
盲目の老女が絵の解説をするシーンで、
彼女は見えていない絵の解説をしたあと
今度はありもしない絵の解説を始めます。
しかし彼女はそれが「ある」と言う。
そう言われてみると僕もそれがあるように感じてしまう(笑)

人がものを「見る」とき
物理的に存在するものだけを見ているわけではない。
たとえそれが幻想であるとしても
存在しないかもしれないものの実在を感じることなしには
人間は人間として存在し得ないはずなのです。