エリック・ロメール『クレールの膝』

今回「六つの教訓話」シリーズのうち5話を観たのですが
基本的な方法というか発想は『獅子座』のころから変わっていなくて
一つのアイデアのバリエーションを少しずつ煮詰めて
同じように見えながらも全く別のものを作り上げていくかのような。
軽快で洒脱な見かけとは裏腹に
パッと見には解りにくい、粘り強く練りこまれた思考の密度の中に
観ている内にいつのまにか、それと知らずに引込まれてしまう感じ。

『愛の昼下がり』のフレデリックの「自己の中の他者」は
クロエと出会うことで発見されるものです。
この映画でジェロームも同じような経験をしますが、
ここではオーロラの小説のネタに触発されて
演劇的にローラ、クレール姉妹と擬似恋愛をするのですが、
本人が演技だと思っているものの中に
彼自身も知らない不気味な「自己の中の他者」が現れるわけです。

ジェロームは婚約者にしか興味がないと言っていて
その言葉が嘘だとは思わないけれど
ローラやクレールにちょっかいを出すときの彼が
演技をしているようには見えません。

ローラとキスをしたときの話や、クレールの膝を触った話を
面白おかしくオーロラに聞かせていますが
それは本気でクラッときたのを誤魔化しているというより
その脚色された話を半ば本気で信じているように見えます。
ついでに言えば、オーロラに「君は親友だ」と繰り返し強調するのも
彼女にもちょっと惚れている気持ちを誤魔化すと言うより
そう言葉にすることでそれを自分に言い聞かせているように見える。

ここで重要なのは、彼が自分の浮気性を自覚しているのではなく
そのような感情を無意識に抑圧して
自らは婚約者一筋であると意識の上では本気で信じているということ。
こういう矛盾した性向が一人の人間の中でいとも簡単に同居し、
そんな自覚もないままに彼が生きているというのが
(ローラやオーロラには気付かれてますが)
この映画のなんとも面白い部分だなぁと思います。

アルメンドロスの映像はどこを取っても文句なしに美しいですが、
ロメールは画だけで見せるような映画を作る人ではありません。
物語が表情を変えるような瞬間
(ローラの告白のシーンや、クレールとの雨宿りのシーン)に
まるで世界そのものが劇的に変容するようなシーンで
丁寧に撮られてきた田舎町の風景やパリの街並みが
最大限効果を発揮するのだと思います。


気になったところ。
ジェロームとローラが山の上で一緒に座ってるシーンで
周りは草ばかりで何もないし他に人もいないはずなのに
画面の手前に丸い影(人の頭?)が映ってたんですが
あれはミスでしょうか、それとも問題ないシーンないんでしょうか。