テオ・アンゲロプロス『こうのとり、たちずさんで』

この映画は越境者の映画でもあり、越境せざる人々の映画でもあります。
境界とは国境はもちろんのこと、
公開当時は世界的にはそれほど顕在化していなかったであろう
民族の境界のことでもあります。
(追記:1992年の映画だから、やっぱり顕在化してたかな)

国境も民族も不思議な境界線で
それが幻想であることは言うまでもないことですが、
一度それが「ある」ことになってしまえば
非常に強固で越えがたいものとして存在してしまう。

それを存在させてしまうのは時間であると言えましょうか。
最初、どこの誰かもわからない者が捏造した境界が、
時を経るにしたがって強固な実体を持ってしまう。

そのような捏造はアンゲロプロスの得意技でもあります。
酒場でグレゴリー・カー演じる主人公を
少女がじっと見つめ続ける印象的なシーンがありますが、
常軌を逸しているとも思える彼女の視線と
その視線を捉える長回しによって
見ず知らずで、口を利いているわけでもない二人の間に
確かにコミュニケーションが生じてしまっています。

そして美しいとしか言いようがない結婚式のシーン。
少女は境界線を越えざるして、やすやすと境界線を越えてしまう。
そこには実体のない国境が映っていると同時に
実体のない結婚が、にも関わらず確かに映っています。

高々数分のこととは言え
映画というジャンルでは常識的ではない「時間」によって
「コミュニケーション」とか「境界」とか言う
本来見えるはずのないものがフィルムに刻み付けられてしまう。
彼が果たしてそれらを肯定しているのか否定しているのかわかりませんが、
まさにアンゲロプロスにしか出来ない表現で、
彼の最も魅力的であり危険でもある部分と言えましょう。


どうでもいいけど。
こうのとり、どこにも出てこないけど何の関係があるんでしょう。