エリック・ロメール『獅子座』

『シュザンヌ』では、非常にわかりやすく愚かなキャラクターだった彼女が
最後の最後にどんでん返し的に反転して
不気味でとらえどころのない存在に変身したわけですが
この映画の主人公ピエールは
100分かけてゆっくりとそのような存在に変身していきます。

映画が始まった時点でのピエールは
確かな身分こそないけれど、恋人もいれば世間体もある
一応は社会に属した人間で、いわば
「はみ出し者」という身分を与えられた存在です。
しかし、彼はあてにしていた遺産を相続できずに
不確かではあっても確かに存在していた身分を奪われる。

最初に服を汚した時点ではまだ羞恥心があり
通りすがりの女の子に見られることを気にしていますが、
しばらくすると「薄汚い男」であることを受け入れ
カップルや親子連れを眼にしても半分諦めモードで
投げやりな視線を投げかけるだけです。

「汚いおっさんがだらだらと歩くだけの映画」という以外の要約ができないほど
「汚いおっさんがだらだらと歩くだけの映画」なのですが、
歩いているうちに、転がって皮が剥けるかのように
当初のピエールにまとわりついていた人間性が剥ぎ取られていきます。
惨めだと言えばこの上なく惨めなのだけれど
余計なものを脱ぎ捨てて純粋な自然状態に近づいていくかのようでもある。

そして、再びパリに舞い戻ってくる頃には
カップル(セックス)や親子連れ(家族)といった社会的な関係は
すでにピエールとは無縁のものとなっていて
ピエールの視界にも入らなければ、彼らの視界にピエールも入らない。
彼は川の水面や鳥たち、風にそよぐ木々に一体化してしまいます。

彼はここで水面や鳥や木々と同質の存在、
人外の法にたつ不気味でとらえどころのない存在になるわけです。
ルノワールの『素晴らしき放浪者』のような存在と言えますが
この映画と『シュザンヌ』に共通してロメール
いかにしてそのような不気味な存在が生まれるか、を描いているわけです。