溝口健二『祇園の姉妹』@フィルムセンター

この映画の山田五十鈴は本当にイヤな女で
僕が深見泰三でもたたき殺してやろうかと思うだろうって感じですが
それよりもまず彼女のことを美しいと思う。

フィクションのキャラクターなんてみんなそうだと言われそうですが
例えば『シュザンヌの生き方』はとてもいい映画だけど
シュザンヌには全く共感できないし、
ベルトランには(自分の性格のこともあって)ものすごく共感するけど
彼のことを魅力的だとも思わない。
つまり映画の魅力とキャラの魅力はつねに比例するわけではないのです。

山田も梅村蓉子も、他の溝口映画の女達も虐げられた人々であり、
逃れられない構造に捕えられながらも
頑としてそれに流されるままにはならず、
かといってそれに簡単に打ち勝つことができるほど
システムというのは甘いものではなく
彼女達はそれに打ちのめされるのだけれども
それでも生きる意志だけは決して捨てない。

その構造と抵抗のダイナミックな運動が
そのまま彼女達の生の美しさとして表れている。
性格などというものも彼女達の抵抗のひとつの表れでしかないのです。

彼女達がいくらもがいても揺らぐことのない強固な構造と
それに対して山田は真正面から、
梅村がささやかに試みる抵抗のダイナミックな運動、
この二つを余すことなく捉えるためにこそ
溝口の冷徹な視線(カメラ)が要請されます。

溝口の画面は静謐で、一見ダイナミクスを欠いていて
構造を捉えるには向いているかもしれないけれど
運動がないように見えます。
しかし、静謐で徹底的に正確であるからこそ
力弱き者たちのほんの小さなアクションを
余すことなく画面に捉え躍動させることができるのです。


はてさて、上に書いたようなことはほとんどそのまま
アンゲロプロスストローブ=ユイレの映画にも当てはまります。
彼らがいかに多くを溝口に負っているかと言いたいのではなく
彼らが徹底してヨーロッパローカル、
溝口は日本ローカルな題材を扱っているにもかかわらず
根底に同じものが流れているということ。
普遍的な真理に至る(めざす)には
ローカルな問題を徹底的に突き詰めるほかないということですね。