ロバート・アルトマン『ゴスフォード・パーク』

階上には貴族たち、階下には従者たちという舞台設定がとても巧妙です。
もちろんそれはダイナミックな階級闘争の劇が演じられるからではなく、
またその階級差が絶望的に乗り越えがたいものであるからでもない。
そもそも1932年のイギリス貴族などというものが
絢爛豪華な優雅なものになどなりようがないし、
メイドたちにしても誰もその階級差が絶対的なものだなどとは端から思っていない。
『ベルばら』のようなダイナミックな階級闘争など
最初から起こりようもない舞台として設定されているわけです。

アルトマンが描くのは何がしかの階級に属する者としての人間ではなく
様々なレベルで違った振る舞いをする個人とそれら個人同士の関係であって
この階層構造をフィルターとして通すと、その人の流れがはっきり見える
という意味において巧妙な舞台装置なのです。

殺人事件が起こるとビデオのパッケージに書いてあり、事実起こるのですが
殺人なんて映画館のスクリーンでは毎日起こっている些細な出来事であって
物語を揺るがす大事件などにはなりようがない。
ここでは殺人事件も上で述べたような個人同士の関係の一形態にすぎない。

探偵はホームズやポアロのような特権的な地位を占める人物ではなく
ただ人の話を聞いてまわるおっさんであって
その話の内容はメイドの噂話とは質的に何もかわらない。
最後の謎解きにしたって殺人事件と同様、
この屋敷の基盤を根底から覆す出来事にはならない。

エルシーやデントンは軽々と階級を飛び越えてみせますが
彼女たちに『ベルばら』のオスカルやアンドレのような意志があったわけではなく、
ただ気が付いたらそうなっていたというだけの話。
ミセス・ウィルソンは明確な意志を持って行動しますが、
そのように思考してそうなったのだと言うよりは
関係の網の目の中で必然的にそうしたのだと言えます。

個々の小さな人間関係が積み重なり
そのどれが突出するわけでもなく全体として見ると大きなうねりになり
いつの間にかゴスフォード・パークは最初とは相貌を変える。
鮮やかなトリックなど一つも使うことなく
大陸プレートのようにゆっくりと天変地異を起こしてみせる
その見事な演出力こそがアルトマンの鮮やかさなのです。