ダニエル・シュミット『ヴィオランタ』

シュミットの映画には「石の様に無関心な人」というのが出てきます。
会食や飲み屋のシーンなどに多いのですが、
主人公達がケンカをしたり愛を語らったりしているというのに
それに見向きもせずまるで主人公などいないかのように振舞う人です。

もちろん、ほとんどの映画には主人公に無関心なエキストラが出てきますが、
彼らは主人公を中心とする物語の力学圏からすれば周縁的存在であって
主人公の存在を脅かすようなものではありません。

それに対し、シュミットの映画の無関心な人々は主人公に近すぎるのです。
テーブルで相席しているにもかかわらず
まるで一人で飯を食っているような人もいるし、
役名を与えられ、エキストラとは言えないような俳優でありながら
最初から最後まで完全に主人公を無視している人までいます。

彼らはいったい何のためにここに居るのかと思わざるを得ませんが、
まさにそう思わせるためにこそ彼らは存在するのではないでしょうか。
主人公の会話に横で相槌をうつようなキャラクターは
主人公の物語に加担することでそれを補強する役割を担っているわけですが、
石の様に無関心に別の時間を生きているような人物達は
主人公達の演じる物語の力学を拡散させます。

じゃあシュミットの映画とはすなわち脱中心化なのか、
と言われればそうではありません。
シュミットの映画において無関心は
エキストラ達だけでなく主人公達にも往々にして見られる態度で
この映画も例外ではありません。

シュミットの映画においては愛や憎悪と言った激しい感情に対して
皆が徹底した無関心によってそれに応えるのです。
パロマ然り、クロチルド然り)
その最も強烈なシーンがラストの結婚パーティのシーン、
ヴィオランタは毒を盛って自殺しますが、
誰一人彼女の死に気づかず娘の結婚を祝います。

アルプス(だかどこだか知りませんが)の美しい風景も
物語の拡散に一役買っています。
その異様に美しい風景に驚き、観客は一瞬物語を忘れる。
しかしその拡散は物語の密度を希薄にするのではなく、
その中でブスブスとくすぶり続ける主人公達の偏執的な感情を
逆に際立たせることになるでしょう。
(この辺はストローブ=ユイレに似ています)

灰の中でエネルギーを拡散し続け、燃え尽きる直前の炎の一瞬の煌き、
その瞬間を拡大した物語がシュミットの映画だと言えましょうか。