チャールズ・チャップリン『チャプリンの霊泉』

別に二番煎じが悪いことだなんて言うつもりはないし、
偉大な先人の手法を踏襲せずして
真に新しい作品なんて作れやしないとも思っているわけだけど、
クストリッツァのやってることなんてチャップリンが全部やってるな」
と、それでも思わざるを得ません。

回転扉の「回転する」「扉」という基本的な機能を
拡大、縮小、反転などして
回転しすぎる扉や回転しない扉、入れない扉
などなど異常な状態の回転扉を次々と繰り出す。

本来は「飲むための泉」であるための霊泉は
チャップリンにおいては容易に「落ちるための穴」になるわけだけど
主人公は最後の最後のオチの場面まで
落ちそうになりながらも寸でのところでそれを避け続け
「落ちるための穴」という機能までも反転させる。
わずか30分のフィルムの中に詰め込まれた濃密な思考に頭がくらくらします。
最後のオチではちゃんと落ちて終わるところが彼らしいですが。

その予定調和的な展開は、先日書いたシュミット/アルモドバルの図式で行けば
チャップリンの映画はアルモドバル的な退屈に属すると言えるでしょう。
それに対しバスター・キートンの予測不能で唐突なギャグがシュミット的なものに相当します。

僕はこの退屈は決して悪いものだとは思わないのです。
NHKでやっていたチャップリンのドキュメンタリーをちょっと観たのですが
彼は現在では考えられないほどテイクにテイクを重ね
時には設定やセットを全く変えて撮り直すこともあったそうです。
(この映画で主人公はホテルに来た酔っ払いですが
最初の設定ではホテルのボーイだったそうです)

彼の映画の、例えば回転扉なら回転扉のもつ可能性を全て出し尽くしたような感じは
わずか数分の回転扉のシーンには
(たかが回転扉に数分を費やす時点で相当にしつこいのですが)
実際のOKテイクの背後にそれこそ膨大な可能性を試し
それを考え抜いた結果が表れているからこそなのでしょう。

それはキートンのギャグほどの躍動感こそありませんが
徹底的に検証されそぎ落とされて鍛え抜かれた予定調和が
退屈さを超えて、狂気じみた迫力をもって迫ってくるのです。