ケージから学んだこと

前にも書いたんですが、音響的にはケージはちょっと苦手で
(つまりCDで聴いてもそんなに面白いと思わないのいですよ)
それほど聴きこんでいるわけではないんですが、
僕だってちょっとくらい影響を受けているわけです。

プリペアドピアノ、4分33秒、チャンスオペレーション等等、
彼の有名な作品に共通するものとして、
「音の訪れを聴く」というのがあります。

主にチャンスオペレーションに対するイメージからだと思うけれど
彼の音楽は「偶然性の音楽」と呼ばれていまして
もちろんそれが間違ってるとは思わないんですが、
「コントロール不能の音楽」と言うともうちょっと概念が広がるかなぁと。
プリペアドピアノは「偶然性」では説明がしづらいですからね。
まぁ「コントロール不能」という概念で全部説明がつくかって言ったら
ナンバーピース作品とかは上手く説明できないんで
これも完璧な概念ってわけじゃないんですけど。

とにかく僕がケージの影響を受けたとしたらそこなのでして
コンピュータ・アルゴリズムを使って作曲することの一番の魅力は
「音が制御不能になること」にあるのですね。
自意識の枷から解き放たれる快感とでも言いましょうか。

で、今作曲家の三輪眞弘さんのワークショップに行ってるのですが、
三輪さんはもっとぶっ飛んでいて、
恣意性だけでなく偶然性も排除した音楽を考えてみようや、とおっしゃいます。
http://www.iamas.ac.jp/~mmiwa/rsmDefinition.html
(↑下のほうに日本語訳もあります)
僕が偶然性ではなくわざわざコントロール不能と言ったのも
三輪さんの概念から思いついたわけです。

ワークショップ参加者は演奏家とか作曲家が多いんですね。
コンピュータ音楽をやってる人って僕ともう一人くらいしかいなくて、
彼や僕は三輪さんのやりたいことがすんなり理解できるので
ガチガチにシステマティックな曲を作って持ってたんですが、
「偶然性も恣意性も配した音楽」と講師が言ってるにも関わらず
皆さんどうにかして偶然性や恣意性をねじ込んだアイデアを持ってくる(笑)

作曲家ってのは基本的に一つ一つ自分で音を作っていく人たちです。
演奏家は指示通り演奏することも多いけど、
やはり自分で出す音には自分の意思が反映されるわけです。
つまり自分で音をコントロールしたいという欲求が強いんじゃないかなぁと。

「偶然性」と「自分の意思」っていうと相性が悪いように思いますが、
作曲家の視点から考えると『4分33秒』から50年以上経った現在では
偶然性も音を制御する技法の一つになっちゃってるんですよね。
オートマティズムに対する主体の最後の抵抗ってとこでしょうか。

僕は最初そのことにちょっとイライラしていて
「この子たちアルゴリズム音楽の真髄を全く理解してないわ!」
なんて思ってたわけですが、
よく考えてみたらそんなもん理解してなくて当然で
まずは自分の問題(演奏家なら演奏の、作曲家なら作曲の)
と照らし合わせて考え、そこから租借して自分なりに理解するしかない。

アルゴリズムのアの字も知らないような人たちが
アルゴリズム音楽を自分なりに理解していく過程を生で見られるわけで
こんな貴重な体験はないよなぁと考えるようになりました。
三輪さんは、自分の音楽がどう理解されるかを見ているわけで
きっと僕よりも何倍も美味しい思いをしているのでしょう。羨ましい。

もう一回ケージの話に戻ってくるはずだったんですが
いつの間にか戻れなくなってしまいました。
続きはいつか(またこのパターンか…)