姜尚中、テッサ・モーリス=スズキ『デモクラシーの冒険』

現代に蔓延するデモクラシーに対する無力感について
政治的決定の「消費者」の地位に
現在の多くの人が追いやられてしまっていることが
大きく関係しているのではないか、
というような話が書かれています。

70年代くらいまでは、市民による抵抗が
政治に対して影響力を持てるということが信じられてたし、
実際に影響を及ぼしていた、と。

このことと、70年代くらいまでは
現代音楽やフリージャズが「普通の人」にも聴かれていた
ということは関係があるように思います。

ケージとかコルトレーンの音楽なんて
なんの構えもなく聴いたら気持ちよくもなんともない音楽です。
あれらは「難しいけどがんばって何かを聴きとってやろう!」
という意思を要求する音楽なのですね。
受動的に聴くのではなく、そうやって積極的に
リスナー自らが働きかけて聴くことに快楽があるわけです。

これを現在に当てはめるとどうなるか・・・
なんてのは言わずもがなですな。

しかし、なぜデモクラシーにおいても音楽においても
市井の市民が「消費者」の地位に追いやられているのか。
システムがそのように構築されていった背景に
それを人々が受け入れた、という話はあるのではないか。

だって面倒くさいですもん。政治について考えるとか
頭を使って音楽を聴くなんて。
そんなのめんどくせーよ!っていう市民達が
受動的なシステムを要求したと思うんです。
その結果、政治にも音楽にも誰も期待していない
という状況が生まれちゃったのかなーと。

はてさて、そんな状況は僕も嫌だなぁと思ってるわけですが
どうやったら変えられるのか。
…という話は、もう紙面が尽きたので(嘘)
機会があれば考えてみたいと思います。