フェラーリのイベント その2

トークショーで面白かったのは、
悠治が徹底的に政治的に語っていたこと。
例えば、映画の中でのフェラーリ夫妻の仲の良さについて
「夫婦が親密だってのは、フランス国内で孤立してるってこと」
みたいなことを言っていました(笑)

フェラーリは『東京日記』の中のインタビューで
直接的に政治について語ることはないけど、
自分が政治について考えたことは作品にも反映されるはずだ、
というようなことを言ってるんですね。

悠治がフェラーリについて言ってたことを僕なりにまとめると
(↓あくまで僕の解釈であって、引用ではないですよ)
個々の音それぞれはバラバラなんだけど、
全体として見ると一つの音楽になっている、
それがシアトルWTOのデモみたいな、
中心の無い同時多発的な政治運動とシンクロしてる、って話。
テロリズムと近い音楽でもあるってことは言えると思う。
悠治が言ったことじゃなくて僕の私見だけど)

後半、フェラーリとはあまり関係なく
偶発性について語っていたのが興味深かったですね。
ある瞬間に鳴らされた音が決定的に素晴らしいものだったとして、
それは必然的(神秘的)に鳴らされたのではないし、
事前に計画されて鳴らされたわけでもなく、
完全にたまたま鳴ってしまったわけでもない。
偶然に鳴らされた音を、決定的なものとして組織する技術がある、
というような話です。

フェラーリの曲がある種の政治形態を予見していたように、
悠治が語っていたような音楽が、
政治的なモデルになる可能性も当然あるわけですね。
もちろん僕が作る曲だって…なわけですよ。
可能性としては、ですよ(笑)
なかなか勇気が湧いてくる話じゃないですか!


昨日の続き。
アップリンクの悪口を書きましたけどね、
フェラーリの映画が観られるなんて思ってなかったし、
すんごい感謝しているのですよ。

でも、やってくれたから万々歳だってわけにはいかなくて、
できることはきちんとやって欲しいわけです。
せっかくフェラーリにちょっと興味を持って観に行ったのに、
手続きで不愉快な気分になったばっかりに、
イベント全体がつまんないものに思えてきて
今後足を運ばない、って人が出てこないとは限らないわけですよ。

ただでさえ現代音楽に興味を持つ人なんて少ないんだから(笑)
「段取りがどうだろうと、お前らまた観にくるんだろ?」
なんて態度だったら(そこまで思ってないだろうけど)
一見さんをリピーターにできないわけですよ。
それはやっぱりもったいないじゃないですか。