宮岡秀行『リュック・フェラーリ--ある抽象的リアリストの肖像』

オープニングイベントだったので、
リュック・フェラーリ東京日記』のデモ上映、本編上映、
高橋悠治足立智美/宮岡秀行によるトーク

正直、ドキュメンタリー映画として観たときに
僕には何も思うことがないので、フェラーリについての話。

フェラーリの作曲風景が写っているのだけど、
僕が思っていた以上にアドリブで作っていたので少し驚きました。
ライブがかなりインプロなのは知ってたんだけど、
あらかじめ準備していた素材の中から
その場で選ぶくらいのもんだと思っていたので。

いわゆるレコードの作品については、
けっこう厳密に作られているものだと思ってたんですね。
映画では声のサンプルをループさせながら、
ミキサーをちょいちょいいじって、
その上にキーボードを重ねて作ってました。
奥さんに「今のアドリブよかったでしょ?」とか言いながら(笑)

で、後半もう一回、同じ曲の作曲風景が写るんですけど、
サンプルの再生かなんかが上手くいかなくて
フェラーリがイライラしてるんですね。
つまり、アドリブとは言え、その場にある音を適当に
(いいかげんに、ではなく適度に、の意)
組み上げて作曲しているわけではないんですね。

フェラーリは、映画の最後に一緒にパフォーマンスした
若いミュージシャン(名前わすれてしまった)に
「具体音から始まって抽象的な音に移行する」
というような話をしていますし、
実際そのような作品が多いんですね。

フェラーリの音楽は、ある具体的な音の中から
ある抽象的な部分を抜き出して結合させる
といった具合に作られているのではなかろうかと。
その「抽象化」が上手くいってる場合は、
それをどのように変化させるかはアドリブでできるんだけど、
具体的な音を抽象化する作業だけは厳密にやらねばならない。
上に書いた二つの場面は、その二つの面に対応しているのかなぁ、と。

悠治の話もあいかわらず面白かったんで書きたいんですけど、
長くなったのでまた明日にでも。


どうでもいい話。
アップリンク、段取り悪すぎ。素人より下手くそですな。
上映形態のアナウンス、チケット捌き、客入れ、もう全部最低。
トークの内容を主催者が把握してなかったみたいだし。
あれが毎週のようにイベントやってる会社の仕切りか?
と思ってしまいますね。ホントに謎。