東浩紀『波状言論S改』

東浩紀が主催してたメーリングリストで、
東と鈴木謙介がゲストを招いて行った鼎談をまとめた本。
北田暁大大澤真幸のもあるけど、
その2、その3を書くかどうかはわかりません。

宮台の発言ではっとするものがあったので引用します。

ルーマンによると、意味は、刺激が反応へと短絡するのを保留し、そのかわりに、多様な反応の可能性を選択肢としてプールして、選びなおすことを可能にする装置だ、となります。
 この議論を前提にすれば、意味によって、初めて、プールされた選択肢の間の差異を享受することが可能になります。そこにインテンシティ(濃密さ)が生まれる。「不可能なものを不可能と知りつつ投企すること」(ロマンチシズム)の享受可能性も、そこから生まれます。

ここで言う「意味」は日常用語とは違うんで、わかりにくいですけど
http://www.nanzan-u.ac.jp/~oyatsu/Luhmann-glossary.htm#
音楽の快楽にも、刺激的なものと意味的なものがあるんではないかと。

自然倍音を気持ちがいいものとして感じるとか、
リズムに乗って踊りだすっていう、刺激のレベルがまずあって、
音楽は、基本的にはその刺激レベルの要素の
組み合わせによってできてるんだと思われます。

ルーマンを読んだことがないから
正確な語法じゃないかもしれないけど、
その組み合わせを適度に複雑化しつつ、
あり得たかもしれない他の組み合わせの可能性を担保し、
その可能性に対する想像力自体を
快楽として享受させるのが意味的なレベルとして音楽ってことでしょうか。

おそらく、刺激レベルだけで音楽を享受している人はいなくて
多かれ少なかれ二つのレベルの複合だと思うんですけど、
「音楽好き」といわれる人ほど意味レベルで聴いている率が多い、と。

この意味のレベルでの享受には二つほど問題があって、
一つは本の中でも言われてるように
意味が持続できずに飽きてしまうこと。
意味の機能が持続しないのは、システム理論的にも必然らしい。

もう一つは、飽きたからといって複雑性を増大させすぎると
代理表象としての意味の機能が失われてしまうってこと。
現代音楽とかフリージャズの一部が、聴く人によっては
ピコパコいってるノイズにしか聴こえないって問題ですね。
エントロピーが増大しすぎると
ホワイトノイズになっちゃうってのと一緒でしょうか。

音楽に限らず、あらゆる表現が段々と追い詰められてる
ってのは常識的なことですけど、
システム理論的に見ても(←知らないけどさ)
このままいくと音楽を聴くという行為が
もはや成立しなくなるような事態がおこるかもしれない。
なんてことも思ってしまいます。
どうやったそれを確保したらいいんでしょうねぇ。

あと、刺激=反応的に音楽を聴く人と
意味的に音楽を聴く人がどうやって別れるのか
っていう問題も、あいかわらずありますし、
僕としては後者に肩入れしたいんですけど、
何を根拠に後者に肩入れしてるんだろう。
…などなど、疑問は尽きません。