ジャン=マリー・ストローブ&ダニエル・ユイレ『労働者たち、農民たち』

ものすごく簡素な作りなのはいつもの通りなんですが
(おそらくカット数は100もないんじゃないでしょうか。
カメラアングルも30パターン以下だと思われます)
プロットがいつになく複雑なので筋を追うのが大変。
てか、半分も理解できているかどうか。

ヴィットリーニの長篇小説『メッシーナの女たち』を原作に、戦後イタリアの一共同体における労働者と農民の共生へと到るプロセスを、登場人物の証言を通して描く。

ってのがアテネフランセのwebに載ってるあらすじです。
労働者たち、農民たちなど12人の村人が、
それぞれが自分の立場で証言をしていくわけですが、
彼らは一歩も動かないし、アクションもほとんど無し。
お互いに会話もしないため、誰かが話してる言葉が、
他の人の話とどう関わるのかがよくわからない。

普通の映画であれば、物語の背後関係なんかは、
映像と会話と編集で観客にわかるようになってるんですが、
上記の通り、そういう要素がほぼ省かれているために、
観客は自分でその再構成作業を行わねばならず、
えらく複雑な映画となってるってわけです。

しかし、この映画がものすごく単純な構成になっている
ということもまた事実でありまして、
この単純さが、労働者と農民の対立と共生という
事態の複雑さをもっとも正確に表象しえるってわけですね。

最後は、収穫だの植林だのといった
村にとって肯定的な話をそれぞれが語るんですが、
ものすごーく平板な語りが並置されることによって、
それぞれの立場の解消されえない差異が際立つと同時に
その差異をまるごと肯定するような感動もあるわけです。

そして、キャラクターもカメラも動かないこと、によって
数時間にわたる(実際どうなのか知りませんが)撮影によって
森に射す光はその角度と光量を変え、
動物達の鳴き声が時間を追って変化するのが明瞭にわかり、
虚構の表情やアクションを一切起こさないキャラクターたちは
動かざるままに、僕達にその生を感じさせるのです。
これが、映画というフィクションの、一つの究極の形である
などと言われるのもわかるってものですね。