フランソワ・オゾン『まぼろし』

ジャン(ブリュノ・クレメール)の幻影は、
マリー(シャーロット・ランプリング)の中の他者性が
具現化したものではないでしょうか。
「私は一個の他者である」ってゆうアレですよ。

マリーの頭の中の一部では、ジャンの死を受け入れているわけだけど、
それを受け入れられない部分も彼女の中にある。
ヴァンサン(ジャック・ノロ)の誘いに喜ぶ自分もいれば、
夫のことを考えてそれを押しとどめようとする自分もいる。
ジャンのことを想う気持ちが、彼の幻影を見させるわけですね。

ラストシーンを見ればわかりますが、マリーはジャンの死を、
受け入れたのか受け入れらなかったのか最後までわからない。
オゾンは、この二つの相反する感情に決着をつけさせません。
マリーは、二つの感情の間で揺れるわけでもないし、
二つの間で引き裂かれてしまうこともないし、
苦悩するわけでもない。
ただ、複雑な感情を同時に抱え込んだまま
その複雑さにひたすら耐えるわけです。

そして、ジャンが事故死したのか、自殺したのか、
(または死んではおらず、失踪しただけなのか)
夫が消えた原因も確定させることができず、
その宙吊り状態に耐えていくわけです。

ヴァンサンとマリーが寝るシーンで、
かっぷくのいいジャンに比べてヴァンサンが軽い、
と言ってマリーがいきなり笑いだします。
その後あらためて二人はことに及ぶわけですが、
彼女は、ジャンのことを想う気持ちを切り替えて
ヴァンサンのことを受け入れたわけではなく、
彼女は、二人の男に対する複合的な感情を
丸ごと抱え込んだままヴァンサンと寝たのでしょう。
誠にエロティックなシーンです。


どうでもいい話。
フランス人は不倫に寛容だと言いますね。
フランス人の知り合いなど一人もいないんで、適当ですが、
彼らは、上記のような複雑な感情をよく知っているからこそ、
「私か、あの男(女)か」というような二者択一を迫らず、
パートナーの複雑な感情に耐え、
自分の中の他者性を飼いならしているのではないでしょうか。

おそらくそれは、快楽的不倫天国といったものではなく、
ジャンの母親がマリーに言ったように、
人生の残酷さにひたすら耐える行為なのかもしれません。
退廃ですなぁ。