ヴィム・ヴェンダース「ミリオンダラー・ホテル」

主人公トムトム(ジェレミー・デイヴィス)は、ナレーションで
『人生はすばらしい。でも、生きている間にはよく見えないんだ』
と語る。これは文字通りの意味だけでなく、
事後的に見られた時にすばらしいと感じる話もある、
という意味に解釈することもできます。
リアルな生ではなく、映像に撮られた人生こそが美しい、というような話で、
映画とはすなわち人生である、いうことになるわけです。

人生はすばらしい、という実感は事後的にのみ実感される。
このことは、テレビ局のスクープのネタになることによって、
トムトムやイジーの人生が捏造されていく事などによって示されます。
「ジ・エンド・オブ・バイオレンス」でもそうだったんですが、
ヴェンダースは人生を支配する映像を、フィルム=映画ではなく、
走査線を強調したテレビ画像に担わせています。
これは、映画がもはや人生を表象しえない、
という認識を示しているのかもしれません。よくわからんのですが。

はっきり言って、上のような問題は
シネフィルの自意識に他ならないわけで、
少々観ていて鬱陶しい部分もあるんですが(笑)、
そのようなことを考えることなしには、
ナマの生に拮抗できるような美しい映画は撮ることができないのでしょう

トムトムがエロイーズ(ミラ・ジョヴォヴィッチ)と仲良くなろうと
階段で一生懸命話かけようとするシーンとか、
部屋で二人がじゃれあうシーンはとても美しいです。
黒沢清の「大いなる幻影」の主人公二人が戯れと通じるところもあって、
唯一、テレビの映像に対抗できる映像だったと思います。
知的障害者をもってこなければあの画を撮れなかった、
というのはこの映画の決定的な弱点で、その点で黒沢の勝ちですけど。


ついでに。
13日の日記と同じ話なんですが
自分の思い入れと、普遍性の間の差異について。

感動なんてすべて鑑賞する側の勝手な思い入れだ、
という考え方もありますが、
僕は、普遍的な美しさ(お笑いなら面白さ)はある、と信じています。

僕はヴェンダースの『窓越しのショット』がすごく好きで、
この映画にもいいなぁと思うショットがいくつかあるんですが、
「ベルリン」の窓越しショットは普遍的な美しさを備えている、
と自信をもって断言できるのに対して、
この映画におけるそれについては、少々自信がありません。

つまり、それを見て、いいなぁと感じるのが、
僕の、単なるノスタルジックな思い入れなのか、
それとも普遍的なものだと言えるのか、
正しい判断を下す自信がないわけです。