鵜飼哲「償いのアルケオロジー」

鵜飼は、アウシュビッツの生き残りであり、
フランスにおける歴史修正主義についての本を書いた歴史学者
ピエール・ヴィダル=ナケについて以下のように述べる。

もっとも危険な倒錯は、戦争の犠牲者がはっきり確信していることを犠牲者の側が証明しなければならないというポジションに置かれることであって、そのポジョションに置かれること自体をヴィダル=ナケは拒否する。』

法のことなんて僕はよく知りませんが、
裁判っていうのは、上のような主張とは逆になっていて、
原告側(こちらが犠牲者、というか被害者の場合が多い)に
立証する責任があって、心象的に限りなくクロでも、
100%被告が悪いと証明されない限り、原則的には無罪になります。

原告側の立証責任なしに判決が下るような裁判が
どれほど恐ろしいものかは、歴史が語っているので
この原則は守られるべきものだと思います。

しかし、これが欠点のないシステムだ、というよりは、
さしあたってベターな選択だ、と言うべきで、
ヴィダル=ナケが言っているような、
倒錯的なポジションが発生してしまうのも事実。
(申告罪なんかは特にね)

法の土俵で争おうとする限り、
この倒錯はいつでも発生してしまう可能性がある。
であるならば、この土俵自体を拒否する選択肢も
常に確保しておいたほうがいいのかもしれない。

だが、どうやって?
リンチというわけにもいかない。
鵜飼は『証明』に対して『証言』という言葉を出している。

自らの立場を証明できない証人は、まさに受難の立場に置かれてしまう。この証明書なき証人の受難を我々は目の当たりにさせられているのではないかと思います。歴史学は修正主義の挑戦を受けることで、警察・司法的なものと共有しているものを自覚する必要がある。そしてそれは、そこから別の歴史的理性を見つけていくチャンスでもあると思います。実際、それだけが歴史修正主義が破壊しようとしている言葉に対する根源的な信頼を救う道なのではないか。女性史をはじめとするオーラルヒストリーの試みの最も深い意味もそこにあるのではないでしょうか。

ちと、引用が長すぎましたかね(笑)削るとこがなかったんです。
従軍慰安婦の問題などの絡みでの発言なので、
そのつもりで読むと分かりやすいかと思います。
よく考えれば、犠牲者が救われる方法は、
加害者が罰せられることのみにあるわけではないのだ。
同じような被害者と連帯することや、歴史に訴えていくことで、
徐々に癒されていく、という可能性を探ったほうがいいのかもしれない。