クリストファー・ボー「恋に落ちる確率」

これはすごく面白い。野心的、という言葉は適切だろうか。
僕は映画史をよく知らないですが、
この手のアプローチは70年代までにやりつくされたのかもしれない。
しかし、前衛が成立しなくなったからと言って
その蓄積を使わない手はないだろうと思う。

原題である「reconstruction」には、
古くなってしまった前衛の手法を現在形に再構築する
という意味も込められているのではなかろうか。

ちなみに邦題はちょっと微妙。
才能があるのに『売れないから』という理由で
発表する機会を奪われてる人がいっぱいいます。
だから僕は、良い作品がヒットして、それを作ったアーティストが
次回作を作りやすい状況になることは、歓迎すべきことだと思うんです。
そのためには、観客に媚びたプロモーションもアリだと思ってるんですが、
さすがにこの邦題は、観た人の半分以上が
『騙された』と思うんじゃないか(笑)

さて、内容の話。
マリア・ボネヴィーが一人二役(主人公の恋人+不倫相手の人妻)
なので、ニコライ・リー・カースが寝た相手が
二人のうちどちらなのか判別がつかない。

アイメ(ボネヴィー)の夫がアウグストが小説家であり、
アレックス(カース)を主人公にした小説を書いているため、
アレックスの現実にアウグストの主観が侵入し、
同時に、アウグストは架空の人物であるはずのアレックスに
妻を寝取られるハメになる。

バーでのアイメとアレックスの出会いの場面が
(確か3回だと思うが)別の形で反復される。
2回目の出会いを最初の出会いが侵食し、
3回目の出会いが最初の出会いを侵食する。違ったかな(笑)

細かく観たらもっともっとあると思うんですけど、
いくつかのパラレルワールドが、不断に別の世界へ接続され、
アレックスはその中を彷徨い歩く。

そして、その構造を可能にしているのは、
フィルムを恣意的に繋げることによって
いかようにも映画内の現実を(再)構築することができる
という映画があらかじめ持っている制度なわけです。

しかし、映画の制度性を露呈させるのがボーの意図ではないだろう。
「これは作り話、映画だ。でも心は痛む」というナレーションでわかる通り
一度バラバラにされ、再構築された物語によって
どれだけ人々の心を打つことができるかが
この映画には賭けられているのだろうと思う。

SF好きの人が観ても面白いかもしれません。
スタートレックだと、メタフィクション的状況におちいっても
なんらかの解決法で必ず元の世界に戻りますが、
この映画には理由もオチもないんですけどね(笑)