自由と配分

岩田靖夫は「ヨーロッパ思想入門」の中で、
ジョン・ロールズの正義論について解説している。

自由とは、各人が自分自身の善の観念をもち、また公共的理性を分有することによって成立するのであるから、このことをすべての人に確保することが、平等の実現ということなのである。

能力は個人のものではなく社会の共有財産であるという思想である。なぜ、そう考えるのか。なぜなら、能力は偶然に与えられたものだからである。自分は優れた能力をもっているが、乏しい能力の所有者であったとしても少しも不思議はない。…(略)…それゆえ、能力を私する理由はないのである。

ロールズの正義論は、自由(上の引用の前者)と配分(後者)の
二つがセットになっているところが、重要であるように思う。
前者だけを考えると、自動的に格差が生じてしまう。
この格差は、能力だけでなく、地理や時代の差もある。

もし自分が女(男)だったら、IQ210だったら、
小泉純一郎の息子だったら…等々。
このくらいならなんとかまだ想像の範囲内という気がするが、
パレスチナ難民として生まれた自分、など
ほとんど想像することさえ難しい。

ロハスは嫌いなのだが)坂本龍一が最近よく言ってるのが、
『愛する子供のためにきれいな水をのこしておきたい』だ。
生まれる時代は選べないのだから、
とりあえず、今僕らが水を飲めるのは偶然であって
飲み水を私する理由は(権利も)ないのだ。

で、後者だけを考えた場合、怠け者のタダ飯食らいを防げない、
という理由で一蹴されてしまうだろう。
言うまでもなく、マルクス主義の失敗の原因はここにある。
いくら働いても給料が一緒だから、だーれも働かなかったわけだ。

しかし、自由とのセットで配分の問題を考えるなら、
各人が善を志向することによって(理想的には)解決可能だ。
もちろん全人類に等しく倫理を確保するなどというのは
ほとんど妄想のような話なのだが。

だが、その方法を考えるとすれば、
やはり自由(倫理)と配分のセットが重要なのではないか。
倫理なくして配分は成立せず、配分なくして倫理は成立しないのだ。