上野千鶴子「スカートの下の劇場」

アメリカ製のポルノグラフィはいくつか見たことがあるけど
(写真もビデオも)なんとも退屈な代物だった。
長い間、僕はこれを文化の違いだと思っていた。
例えば、美男美女の基準が文化によって違うように、
美味しいと感じる味が文化によって違うように、
ポルノで興奮するポイントも文化によって違うんだと思っていた。

ところがどっこい、そうとは言い切れないようである

アメリカでも日本でも反ポルノキャンペーンが盛んです。そのなかでも、日本のポルノは異常だと欧米系のフェミニストは言います。ハードな基準からいえば、欧米のほうがバイオレンスだって、チャイルドポルノだって、もっとえげつないものがあります。だけど、日本のポルノグラフィの与える猥雑感はたしかに独特です。』

深読みのしすぎかもしれないけど、
アメリカ人もあのアメリカ産のポルノを
退屈なものとして享受しているみたいだ。
興奮するポイントが違うとかじゃなくて、
ポルノは興奮するためのものではないのかもしれない。
(日本人男性ほどには)ポルノに猥雑さを求めてないわけですな。

ちょっと前の日記で引用した、蓮實重彦村上龍の対談では
http://d.hatena.ne.jp/wbnt/20051008
蓮實重彦「映画狂人、語る」に収録)
女学生を見ると性器を駆使する対象にしないと気がすまない
というのは表象能力の欠如だと言われてるんだけど
これは半分は当たりだけど、半分はずれではないのか。

女子高生と援助交際するおっさんの目的は、
目の前にいる少女とセックスすることではない。
『女子高生とのセックス』という観念こそが目的なのだ。
表象能力が低いからこんな観念が生まれるわけだが、
この観念も、それはそれで立派な表象である。

ちょっと違う話になるけど、
女性と猥談をしている時によく槍玉にあがるのは
『アダルトビデオのようなセックスをする男』である。
少なからぬ男性がポルノによってセックスのイメージを形成していて、
少なからぬ女性がそれを馬鹿げたことだと考えているということ。

援助交際が極端な例だが、AVのようなセックスにしても
男性の側のセックスのイメージと女性のそれとの間に
断絶があることは確かなようである。
まぁ愛し合っているカップルにだって溝くらいあるだろうし、
欧米人にも男女のすれ違いはあるだろうとは思うけど、
平均的日本人の男女差はけっこうひどいことになってやしないか。

仮説。
アメリカ人があの退屈なポルノで満足できるのは
その表象能力でもって、豊かな性を普段から享受しているからではないか。
(象徴としてのハンカチーフとかね)
彼らにとってセックス(性行為のことね)は
愛の最終目的ではなく、愛の一つの表れでしかなく、
だからこそ性行為にあまり余計な幻想を付与せずに
それ自体として楽しむことができるのではないか。

逆に日本人男性は、表象能力の欠如ゆえに
セックス以外の性の領域を楽しむことができず、
セックスに対して過剰で特殊な幻想を抱いてしまう。
いわゆる恋愛の領域でも、セックス事態でもない
幻想上のセックスに対してその表象能力が発揮されているのだ。
その幻想ゆえに実際のセックスでは女性の反発を招き、
イメージと現実のギャップから疎外感を感じて、
ますます幻想の中へと逃避していく。
悪循環である。げんなり。

処方箋。
双方が満足できるように
(完全には無理としても、最大公約数をめざして)
二人でオープンに話し合ったらいいんでないかね。
別にことに及ぶ前とか、ことの最中じゃなくていいからさ(笑)

前にテレビで梨花が『私は話し合うよ』って言ったら
スタジオの他の出演者は引いてたけど、僕は断固正しいと思うね。
(バラエティの空気ってヤツなのかもしれないけどさ)

性は秘め事にしておくのが美徳だなんていう腐れた文化が
逆説的に援助交際なんてものを助長したのですよ。
そんな文化なんて壊れてしまえばいいのですよ。

念のため。オープンに話をするってのは
何でも好き勝手しゃべるのとは違いますからねっ
せくはらにはご注意を。