誰?

大澤真幸「行為の代数学」によれば
『H・L・A・ハートによって提起された一次ルール/二次ルールの概念』は
『言及されて明示化されたルールが、「一次ルール」であり、言及の営みを支配するルールが「二次ルール」である。』
ここでは二次ルールは一次ルールが言及されるために必要な
不可視のルールであるかのように扱われている。

ここで言う『不可視』をもうちょっと詳しく言えば、
一次ルールが明示的に言及されるのに対し、
それを成立させている、存在はするが積極的には言及されず
否定性としてあるルールの総体、みたいなものかと思われる。

ハートの概念はもともとは、法を分析するためのものなのだが
最初に読んだ時は、一次ルールが普通の意味での法律で
二次ルールが法を規定する法(憲法とか?)かと思ったわけです。
宮台真司もハートについて書いてたんで、読み返してみたら
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=224&catid=7
二次ルールが裁定や変更を規定するルール、
つまり普通の意味での法であって、一次ルールってのは
当事者間の『責務を課し合う言語ゲーム』(←正確な意味はわからん)
なのだそうな。

野球で言えば球を打ち返して走る、ってのが一次ルールで
ルールブックの方が二次ルールなわけですね。
『記述』ってのはルールブックに書き込まれてる内容のことではなくて
ルールブックに従って
グラウンドで起こっている出来事が記述される、というわけ。

これって音楽に置き換えるなら
一次ルールが個々の音の動きそのもので
二次ルールは和声法とかバークリーメソッドとか
ってことになるんでしょう。
はてさて、これらの二次ルールはどうやって成立しているのか。
宮台によれば

『立法や裁判のゲームを支配する「変更/裁定のルール」自体の妥当性も、その「外部」に存在する、最終的に何か(憲法や皇帝の言葉など主権者の命令)を参照してルールを確認するというゲーム(を支配する「承認のルール」)によって、与えられています。
 この最後のゲームを支配するルールは、妥当性を確認するゲームを外に持たないので「究極の承認のルール」と呼びます。ゲームのルールに言及して正当化するゲームを積み増しても、最後はルールに言及して正当化できないゲームが事実性として残るということです。』

だそうな。音楽(芸術一般でもよい)の主権者ってのは誰なんでしょうね。
鑑賞者でも芸術家でもないことは確かです。
前近代のヨーロッパでは神であり、
シェーアバルトにとっては永久機関というモノだったわけですが…

何らかのルールによって構成される音と
それを記述するための二次ルール。
二次ルールの方は演奏された音に基づいて後からでっちあげられる
っていう点においては、法と一緒ですね。
もともとは社会的な問題解決のための
自然法的なルールだったわけですから。

現実に音楽をつくるっていうのは
和声法に従う面もあるわけだけど
作りながらルールをでっちあげるって面も必ずあるわけでして
その変更可能性がどっかから降りてこないといけかんわけです。

「行為の代数学」はまだちょっとしか読んでないんで
大澤がどんな解決をしめしてくれるのか楽しみです。