和田葉子「ふたくちおとこ」

『ふくらはぎの筋肉が、もぐらでも縫い込んだようにふくれている』
この一文がどれほど濃密なエロスを放っていることか。
この小説を読むと人間の欲望というものが
言語というものに侵されていることにあらためて気づかされる。

脚というもの対するフェティッシュな欲望は
脚のもつ手触りのような触覚的なもの、
脚のもつフォルムに対する視覚的なものであると同時に
脚というものがもつ表象的なものでもあるのだ。
というよりむしろ、脚という言葉が生み出されたことが
脚というものを欲望の対象にすることを可能にしているのだろう。

「ふたくちおとこ」のふたくちと言うのは顔の口と肛門のことで、
このようにしてこの小説では
言葉を介して人間が腸詰だのメトロノームだのに生成変化する。
そして、その過程を味わうのはこの上ない快楽なのだ。

ごくごく一般的に単純化して言えば、
女性の脚に対する触覚的、視覚的な男性の欲望は
究極を言えば射精の快楽に一元化されてしまうようなものだが
言語を介した脚への欲望は
それとは違ったものになる可能性を秘めたものだ。
そもそも上の一文はティルという男性キャラクターの脚の描写であって
その描写に僕が欲情することは男女間の性交とは何の関係もないのだ。

男女間の欲望が性器的なものに一元化されるなどという訳はないし
そもそも性器的な欲望が貧しいなどと言うつもりもないのだが
人間の欲望ってものはもっと複雑で豊かなんだということは
強調しても強調しすぎることはないと思うわけです。