感覚の更新

他人の美的感覚についてはわからないので
自分の実感にもとづいて言うしかないのだが
良い音楽というものを考えてみた時に
『新しさ』というのはかなりの比重を占めている。

『新しさ』と『美しさ』は別のものではないのか、
新しいものを美しいと思ってしまうのはなぜか、
そもそも新しいものを美しいと思ってしまうのは錯覚ではないのか、
というような疑問を長いこと抱いてきた。

ウィトゲンシュタイン言語ゲーム論を読み返してみて
(と言っても「探求」は理解不能なので解説書なわけだが)
『家族的類似』という概念が
この疑問を解消する手助けになるのではないかと思った。

『家族の成員は互いに似通っているが、それは全員が、例えばだんごっ鼻といった、ただ一つの性質を共有しているからとは限らない。似通っているという印象は、例えば娘は父親譲りの顎を持ち、他方その息子は彼女と同じ鼻を持つが髪の色は叔父とと同じであるという風な事実に由来する方が多いのである。』
ウィトゲンシュタイン:知識の社会理論/デイヴィド・ブルア)

いきなり話が飛ぶが、
音楽の聴取が訓練に依存するということはよく知られた事実だ。
具体的に言えば、西洋音楽を全く聴いたことがないような
未開の民族にモーツァルトを聞かせても
それを音楽としては認識しない、
というような話に顕著になるわけで、
もっと一般化してわかりやすく言えば
過去に聴いたことのある音楽に近しいものでなければ
音楽として認識できないということだ。

ここでふたたび家族的類似の話。
例えばリズムとは今まで聴いたことがない音だが
メロディと和声はモーツァルトのようなもの、
といった類似による接合によって
音楽なるものの外延は拡張される。

ラーメンズのコントでは
中大兄皇子』→『ナカノO.N.O.J』→『ナカノO.N.O.J.FM』
といった具合に変形されるのだが
中大兄皇子とFMのラジオ局の間には
いかなるつながりもないにもかかわらず
音韻の類似のみによってこの二つが接続される。

音楽においてもこれと同じことがおこっているのではないか。
以前にはなかった新しいリズムパターンが
和声とメロディの家族的類似によって
聴取者のアーカイブと接続する。
この時に起こる感覚の更新そのものが
音楽を聴く際の快楽の源泉ではないか、
という仮説を思いついた。

…書いていて気がついたのだけど
なぜ感覚の更新が美の源泉たりうるかについての
合理的な説明はいっさいなされていませんね。
まだまだ考えることはありそうだが、
今日はこれでおしまい。