相米慎二『魚影の群れ』

思春期の子供たちの映画をいくつも撮っている相米慎二ですが、この映画を観て思ったのは、彼は必ずしも思春期を特権的なものとして考えていたわけではなかったのではないか、ということです。


マグロ漁師を描いたこの映画にはティーンエイジャーなど一人も登場せず、思春期とはまったく関係のない映画なのですが、この映画の登場人物たちは他の相米映画の子供たちとそっくりなのです。
つまり、描きたい対象として思春期があったのではなくて、相米が描きたかったものにたまたま思春期の子供たちがよく合致したというだけなのではないかと思うのです。


それは「変化する力を内包していながら現状に留まろうとする者」とでも言うことが出来ましょうか。
大人の女のなろうとする自らの体を拒絶し、自分のことを「ぼく」と呼ぶ『ションベンライダー』の河合美智子がその典型です。
高校を退学になったにも関わらずセーラー服を脱がなかった『セーラー服と機関銃』の薬師丸ひろ子もそうでしょう。


この映画では、大の大人がまるで成長を拒否する少女のように振舞います。
妻に去られ、娘をつらい思いをさせてきたことを悔いているにも関わらずすべてをマグロに賭けることをやめることができない緒方拳。
義父である緒方の下を離れ、もはや自分を縛るものがないにもかかわらず、閉ざされて何もない小さな漁村を離れず、「漁師になる」と言った最初の決断を貫徹しようとする佐藤浩市
家を出てもおかしくない歳であるにもかかわらず、佐藤を認めようとしない父の下を離れようとはしない夏目雅子(結局彼女は家を出ることになるのですが)


彼らは別の選択肢があるにもかかわらずそれを選ばない。
と言うよりむしろ、彼らを見ていると「選ばない」のではなく「選べない」のだと言ったほうが正確なのかもしれません。
自由意志のある大人であることによって、目の前にあるはずの選択肢を選べないということがいっそう際立ち、映画の印象をより陰惨なものにしています。


相米がなぜそのような人物たちを繰り返し描いたのかという疑問について今思いつくことはないのですが、80年代の不毛な環境(もちろん僕はリアルタイムでは経験していないのですが、残っている作品からもそれらはうかがえます)で映画を撮らなければならなかったことと関係があるのかもしれません。